2012年12月24日

敦賀短大ラストコンサート1215

12月15日(金)は敦賀短大で年2回開催されていたコンサートの最終回になります。
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何時もはトリオかクァルテットの演奏ですが、今回は「たけふプティト・アンサンブル」という管楽器主体の20人のバンドです。
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吹奏楽団としてスタートしたのだけれど、主催の篠田 洋さんの趣味で、「詩のない歌謡曲」を中心にしたバンドとして活躍しているのだそうです。
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曲目は従って、いつもとは若干傾向が異なり、歌謡曲が主体になっていて、お客さんの大半を占めるお年寄りにはたまらないところです。
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<上の写真を撮らせていただいたら、風船のクリスマスツリーをくれました。> 

自分としては、もう少し違うジャンルを聴いてみたいところですが、皆さん熱演でだんだん引き込まれます。

アンサンブルには結構若いメンバーもいて、楽しそうにプレイしています。
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篠田さんのお話だと、大分前らしいけど、五木ひろしのバックをやったことがあるのだとか。
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このコンサートを知ったのは、5年くらい前だったでしょうか?
 
短大の食堂は市民にも公開されているという市報の記事を見て、一度行ってみようと思っていました。
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平日に用事があって、休みを取っていたときでした。
 
行ってみるかと・・・
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丁度その日が「いきいき生涯大学院」の講習の日に当たって、いて、昼休みに講習生相手に、ミニコンサートが実施される日でした。
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そこでクリスマスにコンサートがあることを知り、以来、七夕、クリスマスの両方のコンサートを楽しませてもらうようになりました。
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淡々と小さな形ではありましたが、音楽の楽しさと、地元の音楽家達を紹介していくことに努力されていることが感じられて、楽しみにしていた行事でした。 
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自分はなにも出来ないけど、参加し続けることで協力しようと、用事の無い限りは参加させていただいていました。
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2年前でしたか、五縁のあ孫さんを誘ったところ、姉妹2人で来てくれましたが、姉さんは中学にあがった途端にクラブ活動と、宿題の嵐で、付き合ってくれる暇がなくなってしまいました。
 
妹が付き合ってくれるので、2人きりで年2回のデートを続けてきましたが、これも最後となりました。
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短大のミュージック・メディアコースでささやかに敦賀と繋がっていた松居慶子も、縁が亡くなってしまうのかと、少し寂しいです。
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予定(?)のアンコール曲を2曲演奏して、コンサートは終了。
 
外にでると冷たい雨が降りしきっていました。
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地域交流センターの皆さま、お疲れ様です。どうもありがとうございました。

ニコンP300 で「White Christmas」を録画させていただいたものをYou Tubeにアップしました。

  
閑話休題・・・
 
「White Christmas」は中学の音楽の授業で、英語で覚えさせられて、今でも、うろ覚えで歌える曲です。
歌詞を掲載しておきます。
 
I'm dreaming of a White Christmas
Just like the ones I used to know
Where the treetops glisten
And children listen
To hear sleigh bells in the snow

I'm dreaming of a White Christmas
With every Christmas card I write
"May your days be merry and bright
And may all your Christmas's be white"

I'm dreaming of a White Christmas
Just like the ones I used to know
Where the treetops glisten
And children listen
To hear sleigh bells in the snow

I'm dreaming of a White Christmas
With every Christmas card I write
"May your days be merry and bright
And may all your Christmas's be white"
posted by くまじい at 23:45| Comment(0) | 音楽話

2012年02月28日

「Frida」

「MOMA 0430」で書きましたが、Frida KahloについてはMOMAで初めて知り、記事を書くために彼女のことを調べて、その絵と人生に魅せられました。
 
映画「Frida」は2001年に製作され、アメリカでは2002年、 日本では2003年に公開され、複数のアカデミー賞を受賞した映画です。
 
いまだに公式サイトは開かれていて情報の確認ができます。
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映画「フリーダ」公式サイト
 
Frida Kahloは1984年にも映画化されていて、その激烈な人生がドラマの素材として、適していて、人々をひきつけるのだと思います。

<"Frida" 予告編>
 
"La Llorona"は「Frida」の挿入歌として使用されており、前回のLia Downsの歌の他に、このChavela Vargasの歌がでてくるようで、当人が実際にでてきて唄っています。
 
下記の動画の唄い出しは明らかに声が違うので、Chavelaの若い頃の歌なのではないかと思います。歌の最後の方に、現在の御本人がでてくるのですが、声もがらりと変わり、一気に歳をとります。
 
また、この動画は映画のダイジェスト版の様になっていて、交通事故のシーン、「断髪の自画像」の髪を切るシーンもでてきます。

<"La Llorona" Chavela Vargas>

公式サイトに詳細なあらすじが記載されていて、Frida Kahloの人生をたどることができます。下記に転載させていただきます。大分はしょらせていただきましたが、それでも大分長くなりました。
 
『1925年9月。悲惨なバス事故がフリーダ・カーロの人生を変えた。
 
フリーダの乗っていたバスが、路面電車と衝突し、数名の死者と多数の重傷者を出す。フリーダは瓦礫の中から、血にまみれで、鉄棒に突き刺された状態で発 見された。
 
鉄棒は左臀部から膣を貫通し て腹部に深い傷を残し、また、彼女の背骨、肋骨、骨盤、鎖骨は砕け、右足はつぶれた。もともと小児 麻痺で数年前から不自由だった右脚は、10ヶ所以上が骨折した。
 
何ヶ月もギブスやコルセットや牽引で 固定され、乱暴な手術が繰り返された。フリーダは悲惨な症状から引き起こされる孤独と寂しさにさいなまれる。 
 
彼女は絵にその感情をぶつけて時を過ごした。
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<″イバラの首飾りの自画像″ 1940年>Wikipedia

父は写真家であったが、手術代を工面するために家財を売り払うなど、家計は火の 車であった。それでも、両親は寝たきりの娘に特注イーゼルを贈り、自分自身をモデルにできるようベッドの天蓋に鏡をつけるなど、フリーダに芽生えた絵画への関心を応援した。
 
歩けるようになったフリーダは、自分の絵を認めてもらうために、既に有名な壁画家だったディエゴ・リベラを 訪ねる。ディエゴは作品はもとより、若きアーティストの熱心さと美しさに魅せられる。
 
「そのときは気づいて いなかったが、フリーダはすでに私の人生でもっとも重要な存在になっていた」と、 ディエゴはその出会いについて語っている。
 
フリーダにとっては、ディエゴは欠かせない人であったが、酷い裏切りも受けており、皮肉な解釈をする。「私は人生でふたつの大きな事故に見舞われた。ひとつは路面電車にひかれたこと。もうひとつはディエゴと出会ったことよ。」 

<″Despedida″ Shakira> 
 
1929年8月、惹かれあったディエゴとフリーダはコヨアカンで結婚した。
 
ディエゴから財政的な援助を得られることになり、余裕はできたが、フリーダの母は、21歳の年齢差や彼の有名な女好き、そして彼の巨体に嫌悪して、二人の結婚に対して心から喜ぶことはなかった。
 
写真家のティナ・モドッティ(なんと・・・自分の好きな女優、アシュリー・ジャッドが演じています!!)や壁画家のシケイロス等のアーティスト仲間 も、この結婚がうまくいくか怪しんだ。
 
1930年、ディエゴはアメリカで壁画の仕事を任されると、フリーダとサンフ ランシスコ、デトロイト、ニューヨークを回り、公共建築から個人邸まで次々と壁画を制作す る。
 
行く先々でふたりは歓迎された。フリーダは故郷メキシコを恋しがっていたが、ディエゴは有頂天になり、数々の情事にふける。
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<髪を刈った自画像 1940年>MOMA0430

その間にフリーダは子供を身ごもるが流産してしまう。 心の痛みや寂しさを「ヘンリー ・フォード病院」(32)、「メキシコ・アメリカ国境上の自画像」(32)、「私の衣装が掛か っている(ニューヨーク)」(33)などの絵にぶつけた。
 
ディエゴはロックフェラー・センターの壁画に レーニンの顔を描いたことで、ロックフェラーと対立、ロックフェラーはディエゴを解雇し、壁画を壊してしまう。(エドワード・ノートンがロックフェラーを演じています。)
 
これを機に、ディエゴとフリーダは1933年12月に メキシコへ戻り、メキシコ市南部のコヨアカンに新居を構え、メキシコの生活が始まるが、ディエゴは嫁ぎ先から離婚して戻っていたフリーダの妹に手を出してしまいます。 

ディエゴは亡命したロシアの革命家レオン・トロツキーを庇護し、フリーダの実家を提供する。 トロツキーとフリ ーダは互いに惹かれ合うことになりますが、トロツキーは2年後にメキシコを去ります。

トロツキーと共に滞在していたシュルレアリストのアンドレ・ブルトンが、フリーダ の絵の賞賛者となる。

<"Palma Negra"  Chavela Vargas>
 

ブルトンの尽力の末、個展が開かれ、ルーヴル美術館が「自画像(額縁)」(38)を買い上げる。ルーヴルにラテンアメ リカのアーティストの絵が飾られるのは初めてのことであった。
 
絵の成功とは別に、フリーダは、フランスで生活することに耐えられず、メキシコに戻るが、ディエゴが離婚を切り出し、カリフォルニアへ移って行く。
 
フリーダの体調は悪化していくが、この暗い時期こそがフリーダの芸術家として最も実りある時期であり、「二人のフ リーダ」(39)、「断髪の自画像」(40)、「夢」(40)、「森の中の二人の裸婦」(40)などの数々の傑作が生み出された。
 
トロツキーが暗殺され、ディエゴは行方をくらました。トロツキーの死とディエゴに捨てられた余波で、フリーダの容体はさらに悪化する。
 

<Frida Kahlo 絵画集>

 
彼女の足指は壊疽にかかり 切断、背中の手術も繰り返され、腎臓の感染症や他の合併症にかかる。彼女は仰向けに吊され、鉄のコルセットを着せられた。「絵が描けるように私を直して」。
 
ディエゴが現れ、再婚する。手術と入院の繰り返しがもたらす痛みは「折れた 背骨」(44)、「希望なく」(45)、「モーゼ」(46)などの最高傑作を生みだした。 1953年、右脚切断。
 
鎮痛剤に頼り切りの生活と絶えることない感染症や合併症に、ついに彼女の体は持たなくなる。肺炎をこじらせたフリーダは永遠の眠りについた。1954年7月13日、47回目の誕生日を迎えた1週間後であった。 』
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<フラン・チャンと私 1937年>MOMA0430

「ファド」から「泣き女」から再び出会ったフリーダ・カーロ・・・YouTubeでは沢山の絵画、彼女のポートレート、映画「Frida」のアップロード動画が山のようにありました。

結局色々見ているうちにフリーダ・カーロに段々と染まって行き、映画「Frida」のDVDと「フリーダ・カーロ 引き裂かれた自画像」堀尾真紀子著(中公文庫)をAmazon.co.jpで購入してしまいました。
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実はDVDはGEOに借りに行ったのですが、ありませんでした。入れる予定もないとのこと・・・それならと購入することになったというところです。昨日現在、既に、近所のローソンに商品が到着しているとのメールが入りました。
 
今日、受領に行こうと思います。しばらく観る時間がない様な気もするのですが・・・
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2012年02月26日

「La Llorona」そして「Frida」

「La Llorona ラ・ジョローナ(泣き女)」はメキシコのオアハーカ地方が原点で、北アメリカの南部から南アメリカ各地まで広い範囲に広がる伝承歌謡として、歌い継がれている様です。
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Amazon.co.jp ・・・本が欲しくなりました。

『「La Llorona(泣き女)」はまるで死神のような血染めの白衣の姿で、夜中に、水辺で恐ろしい声で泣く「泣き女」に歌いかける歌です。
 
この歌には種々の歌詞がありますが、ほとんど伝説とは無関係な恋歌にも聞こえるような歌詞になっています。』※1
 
下の動画はMusica Andina(日本語でフォルクローレ)としか記述がなく、演奏者は判りませんが、この哀感のある素朴なメロディが心に沁み込みます。

前に聴いたことあるメロディの様な気もしますが、定かではありません。

色々なアーティストの曲を聴いているうちに、そんな気になってしまったのかもしれない。日本人の琴線に触れるメロディと言うことかもしれません。


 
「泣き女」の話を調べましたが、なかなかまとまった記述がなく、英語版のWilipedia に記述および関連のサイトの紹介がありました。※2,3

″La Llorona″はスペイン語で「泣き女」の意味で、基本的にはコンキスタドール(征服者)時代から、南西アメリカのヒスパニック(スペイン語圏出身者※)の間に広がる伝承話である。
※スペイン人の混血子孫としていましたが、定義は異なるようなので訂正しました。
正確なオリジナルについては不明とのこと。
 
伝承により様々なバリエーションがあるが、共通しているのは「河で死んだ子を悲しんで、自分も死に、川辺を泣きながら彷徨う亡霊。」と言うところの様です。
 
「泣き女」が遊び好きで、子供への関心が薄く、死なせてしまう、あるいは彼女が子供を殺してしまうバージョンの話を追記に載せました。
 
ここでは別バージョンを・・・

『昔、小さい村の農家にマリアという驚くほど美しい娘がいた。
 
マリアはまたよく気の付く女性で、彼女に好意を寄せる男達が多かったが、その中でも熱心にプレゼント攻勢を貫いた富豪の男と結婚をした。

しかしながら、マリアが二人の息子を生むと夫は変わり、女遊びに狂い始め、家に帰らなくなります。
 
マリアに関心を失ってしまった夫は、マリアを捨て、故郷に帰り、自分にふさわしい富豪の娘と結婚してしまいます。
 
夫がマリアの元に帰る時もありましたが、二人の息子に会うことが目的でした。
 
マリアは失意から荒れ始め、その怒りは二人の息子に向っていきます。
 

<″La Llorona"  Susana Harp>
 

ある日の夕方、マリアが二人の子供とサンタフェ川沿いの道を散歩していると、夫が馬車でやってきます。
 
隣には上品な現在の妻が座っていました。
 
夫は二人の息子に話かけますが、マリアは無視して、そのまま振り返りもせずに立ち去ります。
 
マリアは去りゆく夫の馬車を睨みつけながら、激しく怒りがこみ上げて来ます。
 
息子たちに向き直ると、彼らの手を掴み、川に放り込んでしまいます。
 
二人の子供の姿が川面から消えてからマリアは我に帰ります。
 
慌てて息子たちの姿を探し求めますが、間に合いませんでした。
 
マリアは悲嘆にくれて、泣き叫びながら走り周りました。
 
その後も、白いガウンをまとい、日夜泣き明かし、川の脇を歩き廻りました。
 
マリアは食べ物を口にせずに、痩せ衰えて、まるで歩く骸骨のようになり、白いガウンもすり切れて行き、川の土手で息を引き取ります。
 
マリアが死んでから暫くして、夜になると白いガウンを着たマリアの魂がサンタフェ川の土手を泣き叫びながら彷徨う姿が見られるようになります。
 
人々は、彼女を恐れ、マリアではなく「泣き女」と呼ぶようになり、子供たちに夜、外出すると「泣き女」に掴まれて川に投げられて死んでしまうよと戒めるようになりました。』

<"La Llorona"  Lia Downs  ※動画差し替えました。'13.05.13>
  
マリアが自分の息子たちだけでなく、無差別に、子供を殺しまくった、いや子供に限らず、大勢を殺したという説もあるのだそうです。
 
マリアの夫はスペインの人間で、マリアを捨てて自国に帰って結婚したという話もありました。また自らが殺したのではなく、混血を嫌う部族の風習でマリアの意図に沿わずに子供を殺してしまった、という話もありました。
 
ヒスパニックの中で伝承してきた話ということから、上流階級=征服者たち(スペイン人)という図式でみたほうが、マリアの悲劇を理解しやすいのかも知れません。 
  
え〜と、「泣き女」はすっと通り過ぎて、「Frida」にたどりつこうと思ったのですが、つい面白くなって深入りしてしまいました。
 
上のLia Downsの動画のタイトルに「Frida」とあります。
 
また動画のタイトルバックにMOMAで知ったメキシコの女流画家Frida Kahloの絵が使用されています。
 
(※動画差し替えたため、Fridaに縁のない動画となってしまいました。以前の動画での話です。)
 
"La Llorona"はFridaお気に入りの曲の一つであり、2001年に製作され、2003年に日本でも公開された「Frida」と言う伝記映画の挿入歌に使用されたのだそうです。
 
続きます・・・
 

 
ラ・ジョローナ(泣き女 La llorona) 訳詞、異説
posted by くまじい at 19:00| Comment(0) | 音楽話

2012年02月25日

「Fado」そして「La Llorona」

サイドカラムの「僕の音楽」に貼りつけている "A Máquina"を演奏しているAmor Electro はポルトガルのグループで、YouTubeでファド(Fado)の世界を彷徨っている時に出会って気に入ってしまいました。
 
まあ演歌(Fado)にこだわらない、POP歌手という感じで、ファドとは呼べない部類かもしれません・・・

ファドは、ポルトガル、リスボンで生まれた民族歌謡。と言ってもその生まれは種々の説があり、明確ではないらしい。「Fado」は「運命」、または「宿命」を意味する言葉(Fate)なのだそうです。
 
ファドで基本的な楽器はクラシックギター(ヴィオラ)とギターラ(ポルトガルギター)・・・ギターラはスチールの12弦の楽器で、独特の情緒を醸し出します。

<"Tive um coraçao perdi-o" Cristina Branco>
 
日本語でファドを語っているサイト、「ファドの部屋」に記載されている説を一部編集して引用させていただきます。その他に「ポルトガル・ロマン」「ポルトガル公式観光ウェブサイト」、Wikipediaを参考にさせていただきました。
 
「大航海時代(15世紀〜17世紀)にポルトガル人達が植民地ブラジルへ連れて行ったアフリカ人奴隷達の踊り「Fado 」※が、植民地から収奪した金やその他の産物とともに、港町リスボア(リスボン)に逆輸入された。
 
※黒人奴隷の歌う「ルンドゥー」にそのルーツがあるとも言われるようです。


多様な人種と文化の混合する植民地ブラジルから渡ってきた踊り Fado は、当時、同様に南アメリカ大陸に広く進出していたスペイン支配下のアルゼンチンの「ファンダンゴ」にも影響され、きわめて官能的な踊りだったとのことである。

<"Canção do Mar" Dulce Pontes>
 
リスボアに逆輸入されたFado は、ポルトガルに連れてこられた黒人達や、混血達が多く集まり住んだ古い市街地アルファーマやモウラリアを中心に、ブームを巻き起こしていく。
 
リスボアの下町で歌い、踊られた Fado は、やがて舞台音楽や他階級文化の影響を受けるうちにアフリカ的な打楽器の伴奏が次第に失われ、歌の部分のみが強調されてくる。
 
19世紀に入ると植民地支配の栄光の時代は終わりを告げ、ブラジルやアフリカの植民地を次々と手放したポルトガルは暗い困窮した黄昏の時代に入る。
 
その暗い世相の中で Fado は、貧しい人々が集まる下町の石畳に響くように、裏町の安酒場や売春宿で歌われ続けた。
<"Dulce Caravela" Katia Guerreiro ;Composed by Dulce Pontes>
 
Fado の歌い手を Fadista (ファディスタ) と呼ぶが、 Fado が最下層の人々の歌であったため、 Fadista という言葉は元々は「やくざ、ならず者、売春婦」の含みを持っている。
 
その中にMaria Severa(マリア・セヴェラ:1820-1846)というジプシーの人気ファディスタが登場します。
 
セヴェラはもモウラリアの高級娼婦であったが、貴族の一人がセヴェラを愛し、セヴェラをどうどうと公の場に伴ったりしていました。彼女は26歳の若さで結核のため命を落としますが、後に伯爵はファドを貴族のサロンへと持ち込み、広めて行きます。  
 
こうして、ファドは人々に知れ渡り、王室のサロンですら歌われるようになり、歌の内容も Saudade(郷愁)、Amor(愛)をテーマにした詩的な歌詞がメランコリなメロディーで作られるようになりました。
 
後年、有名なファディスタAmália Rodrigues(アマリア・ロドリゲス:1920.7.23-1999.10.6)が出現して Fado はその頂点を迎えます。

<″暗いはしけ(Barco Negro)″ Amália Rodrigues>
2012.10.05動画差替ました。
 
フランス映画「過去のある愛情」の挿入歌として歌われた彼女の「暗いはしけ(Barco Negro)」※が世界的に注目されて、小国ポルトガルの首都の片隅で生まれた民族歌謡が世界中に知られ多くの人々に愛好される時代を迎えたのである。」
 
※「暗いはしけ」はブラジルの曲で、正確にいうとFado ではないとのこと。
 
リスボアで生まれたファドはポルト等他の都市にも広がり、第3の都市、コインブラには学生によるファドが根付いているのだそうです。

自分のファドのイメージは、当然ながら、Amália の「暗いはしけ」に始まっています。 

暮れゆく港に佇む娼婦、酒場女・・・というイメージで、あくまでも暗い、陰鬱な景色がまとわりついています。

一方、リスボンの街への自分の印象は、何処までも抜けるような青空、コバルトブルーの海が広がり、陽射しに輝く、まぶしいほどの建物の壁の白さ、オレンジ色の屋根瓦・・・
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Wikipedia

地中海の入り口ということで地中海とイメージが混濁しているかも知れないもので、いささかファドの雰囲気とは異なるものなのですが・・・
 
昼間は「輝く街」を身体一杯に感じ、夜は酒を飲みながら「宿命」を心の底に沈殿させる・・・
 
"Canção do Mar"を歌っている Dulce PontesはKatia Guerreiro の唄っている"Dulce Caravela"の作者でもあり、楽器もこなすファド界のシンガーソングライターという才能豊かな人のようです。

ポルトガル観光のサイトではDulceはリチャード・ギアの「真実の行方」に取り上げられたとの記述がありますが、詳細は判りませんでした。映画の中で彼女の曲が採り上げられたということなのでしょうか・・・
 
「真実の行方」はエドワード・ノートンの演技が光っていて、リチャード・ギアとのせめぎ合いが面白くて、記憶に残っている映画です。
 
Dulceが 唄っている「La Llorona ラ・ジョローナ(泣き女)」にたどり着いた途端に、違う世界に行ってしまいます。
 
Dulceは「A Chorona」というタイトルに置き換えて唄っているみたいです。
<"La Llorona(A Chorona)"  Doluce  Pontes>
 
「La Llorona ラ・ジョローナ(泣き女)」はメキシコのオアハカ地方の民謡で、ポルトガル語からスペイン語に飛ぶ訳ですが、YouTubeを見ているとメキシコの多くの男女の歌手をはじめとして色々な人が採り上げていることがわかります。
 
ここではちょっと変わってJoan Baezの動画を。
<"La Llorona" Joan Baez>2012.04.03動画差替ました。
 
さらに探しているうちにまた違う展開にたどり着くのですが、続くです。
posted by くまじい at 11:42| Comment(0) | 音楽話

2012年02月05日

あっふた みっどないと・・

昨日、最後の2011年の記事をアップして、なにか胸のつかえがおりた感じがして、放っておいた「くまじいノート」の整理を始めました。
 
削除された動画の代わりを探したり、歌手の公式ホームページを追記したりと・・・
 
Pentangle、 "Reflection"の記事を見直していた時に、Pentangleとしてのホームページが見つからないため、代わりにBert Janschの公式サイトを参照しておこうと思いました。
 
WikipediaでJanschの項を見ると(1943.11.03~2011.10.05)とかっこが閉じられていてびっくり・・・
 

昨年、肺ガンで亡くなったのだそうです。自分の音楽の嗜好の一部を確実に占めていた人でした。
 
ご冥福をお祈りいたします。
 
上の動画はBert JanschがAnn Briggsのバックをしている"The Time Has Gone"です。
 
と言いつつこの記事はJ.J.Caleをまともに聴いたのがこのブログを始めた後のYouTubeでした、というもので大分前に書きかけていたものです・・・
 
J.J.Caleについては名前は知っていても、まともに音を聴いたことがありませんでした。
 
昔アルバムジャケットを見て、グループ名だと思ったくらいです・・・今ではお気に入りになりCDも5枚ほど持つようになっています。
 
 
正直な話、You Tubeを知ってから、昔名前は知っていても音を聴いたことがなかったアーティストを聴いたり、ヒット曲しか知らなかった歌手やグループの他の曲を知る機会が大きく増えました。
 
自分は、おそらく、これからしばらくは一曲一曲をダウンロードするやり方にはなじまないでアルバムCD派のままでいると思います。
 
アーティストが「アルバム」という概念で作品を構成している限り、そのうちの一曲だけ切りだしてしまうことはしたくないなと。
 
・・・まあ、ぶっちゃけた話、アナログレコードのころからの沁みついた体質として、形としての「ジャケット」が欲しいというところがあって、デジタルデータだけでは満足てきない、というのも事実です。
 
こう言う人間にとっては、YouTubeで曲を聴き、気に入ると、その曲の入ったアルバムが欲しくなりCD購入数が増えているのですが、世の中の流れは、今、真逆なのだと思います。※
 
J.J.Caleにたどり着いたのはMarc Bennoを探していた時だったと思います。

<アルバム″Minnows″は大のお気に入りです>
 
Leon Russel繋がりでスタジオセッションの"I Got The Same Old Blues"に行き当たり、おっ、これはと惹かれました。
 
その後、上に貼りつけた"After Midnight"の演奏ぶりですっかり虜になってしまいます。これがレイドバックだ・・・と。(なにがレイドバックだか判っていませんが・・・)
 
動画を見ているとギターでイントロを演るJJの右手になにか白いものがあります。
 
煙が流れているのでどうも煙草を薬指と中指の股に挟んでギター弾いてる・・・
 
間奏に入ると一服するのでそうと判ります。
 
JJはEric Clapton が敬愛するアーティストの一人なのだそうで、彼が" After Midnight"を世に知らしめ、JJを紹介した形になっているとのこと。
 
正直いうとレコードヒットした時のEric Clapton"After Midnight"は彼がアメリカに来て一緒に演っていたDelaney &Bonnieを彷彿させるような曲調で、余り乗れないかんじでした。
(そう言えばDelaney Blamlettは4年も前に亡くなっています。1939.7.1 - 2008.12.27)
 
JJの演奏でこんなに良い曲だったんだ・・って・・・まあJJの色んな曲を多くのアーティストが採り上げていますが、自分にとっては、なんたってJJの演奏が一番です。※2
 
最近のファンのくせに生意気ですが・・・
 
実は一番この記事で書きたかったのは下の動画、JJとEricのコラボでの二人の様子です。
 
JJは1938年生まれで自分より10歳も年上ですから、今や腰は曲がり、唄う時にはスツールに腰掛けちゃいます。 
 

イントロが流れると、最初のソロを「Eric行け!」とJJがEricに振ります。
 
JJを敬愛して止まないEricが「ダメダメ、勘弁して、JJ。」と・・・Eric Claptonの人柄が何となく、偲ばれて面白いのです
 
下は最近気に入っている二人のコラボです。
<Eric Clapton with JJ Cale"River Runs Deep ">

※Marc Bennoのファーストソロアルバム"Marc Benno"はレアものの部類に入るようで、Amazonで3,800円出して購入しました。

CDのレア化はどんどん進んでいくのでしょう。何を探している時か忘れましたが、CDで4〜5,000円するものが iTuneでアルバム全体が1,000円程度で購入できるのを知り、ちょっと考え込んでしまったことを思い出しました。
 
えらそうにCD派と広言しましたが、徐々に自分の自由になるお小遣いも減っていくだろうし、ジャケットへのこだわりを捨てて、ダウンロード派に転向する時が確実に来るのかもしれません。
 
※2 実は・・・J.J.Caleの曲でも下記の演奏のようにオリジナル以外でもいいなと思うものもあります・・・
Maria Muldaur"Cajun Moon" Live
Lynyrd Skynyrd"I Got The Same Old Blues"
posted by くまじい at 11:58| Comment(0) | 音楽話

2011年12月13日

敦賀短大クリスマスコンサート1209

敦賀短大のクリスマスコンサートに。
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今夜も五縁の孫とデートですが、中学に上がった上の娘は忙しくてクラブ活動から帰ってこれずに、小学校の妹と二人きりでデートです。

今日はボーカル新田泉、ピアノ田崎栄爾、アコースティックギター春田高廣のクリスマスソング特集。
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新田泉さん芦原出身の歌手で、ソロで活躍していて、「Dear」と言うアルバムも出しています。
 
今夜は「If 」という曲と「Bloom」と言うオリジナル曲を唄ってくれましたが、2曲ともギターの春田さん作曲で新田さんが作詞をした曲なのだそうです。
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楽衆玄達というグループの音楽活動もしていて、そこにはピアノの田崎さんも加わっているとのこと。
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楽衆玄達は福井を題材にした現代の唄を造ろうとする活動の様で、和楽器もとりいれた曲造りをしているみたい。福井でもこういう活動されているプロの人達がいるのを知って、嬉しくなってきました。
 
新田泉さんがボーカルをしている映像がありました。
 
 
福井テレビの夕方の番組のキャラクター「いやいやくん」(?)のテーマミュージックを歌っているのも新田さんとのこと。小学生は「いやいやくん」を知ってましたが・・・
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有名なクリスマスソングが並んでいますが、小学生には知らない曲が並んでいたようです。
 
自分の中学校の教科書に「ホワイトクリスマス」が載っていて、授業中に覚えた記憶があって、クリスマスの唄を意識するようになった気がするから、小学校ではまだ、と言う感じかも知れない。
 
メル・トーメの「クリスマス・ソング」をピアノソロで演奏するとのことで、P300で演奏を録画してしまいました。盗撮になると思いますので、ちょっと心苦しいのですが、会の宣伝にもなることとYou Tubeにアップしました。
<始めと終わりの1分と少し、画面中央に変換ソフトの注意事項が出ます。> 

何回か参加させていただいてきたコンサートでしたが、新設される看護系4年制大学に敦賀短大が吸収されるということで、短大自体がH25年3月を持って消滅とのこと。
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本コンサートも来年の七夕とクリスマスのコンサートの2回を持って終了するのだそうです。残念ですが、こういうささやかな芽がどこかに引き継がれて生きて行けばいいなと思っています。
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2011年12月11日

Eric Clapton & Steve Winwood

11月28日(月)にEric Clapton & Steve Winwoodの金沢公演がありました。
 
21日の週には大阪で公演があったのですが、会場が大きいこと、大阪人の乗りについて行けそうもないなとビビって・・・テレビで金沢公演の宣伝が流れて、これはいいかなと先行予約に申し込みます。 まだ5月のことでした。
 
少し間をおいて、チケットが到着、石川県総合スポーツセンターのアリーナ席を取り囲む感じの2階席の最後列でしたが、舞台からは比較的近い席でした。
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顔は判らないけど、人差し指大位の二人が演奏している姿が見えて、まあ満足でした。ただ、通路を盗撮監視の係り員が終始、動き回っているのが背中に感じられて、不快感もありましたが。

後ろの方に空席があるのにびっくり・・・まあ、9割5分の入りというところ?演者から見たら気分悪いだろうな、と、気になります。

そのせいか、クラプトンはメンバー紹介以外には最初の「コンニチワ」と曲の合間の「サンキュウ!」しか言わずに淡々と曲を続けて行きました。まあ、言葉が少ないのは不機嫌というより、クラプトンの性格的なものなのだと思います。
 
オープニングはブラインド・フェースの「Hard To Cry Today」で、一気に「くま」のテンションが120%に到達します。

 
たった一枚のブラインドフェースのアルバム・・・クリームの栄光を引きずって延々とドラムソロを演ったジンジャー・ベーカーがガンだったと、あいつさえいなければ、と勝手に思い込んでいて・・・実態は知らないのですが・・・
 
その後はクラプトンとウィンウッドの曲を交互に演奏して行きます。クラプトンの曲と言っても、JJケールの「After Midnight」、「Cocane」等の様に、クラプトンでヒットした曲、という言い方が正しいのかもしれません。

 
コンポーザー兼シンガー兼マルチ楽器プレーヤーのウィンウッドはほとんどが自作の曲が続いて、自分には馴染みのある曲ばかりで「くま」の興奮は続きます。
 
聴いたことのない曲もありましたが、あれが最近の作なんだろうって、言い換えると最近あまり曲は造っていないのかと・・・
 
それにしても、クラプトンのヒット曲のイントロが始まると若干の歓声と拍手があがりますが、ウィンウッドの時にはシーンとしている・・・自分だけ、「おーっ!」とか「キャーッ」とか言って浮いてる感じがしてきます。
 
ウィンウッドが「Georgia On My Mind」唄ったときだけ、唯一歓声があがりました・・・註書に産経新聞の記事を載せましたが、クラプトンはこの曲でウィンウッドを知り、クリームに入れたかったのだとか・・
 
休憩後に「Crossroads」があって、これはもうイントロから盛り上がって・・・
 
上の映像は2007年の時のライブ映像ですが、ギターで頑張ってる長髪を束ねた太めの男はスーザン・テデスキの旦那のギターの名手デレク・トラックスです。
 
興奮状態継続の「くま」はスペンサー・デービス・グループの「Gimme Some Lovin'」が始まると失神状態に。

 
エンディングはなんだったか忘れてしまったのですがやはりウィンウッドの曲で終了。「Can't Find My Way Home」だった気がするのですが・・・


観客もこのころには盛り上がりを見せて来て、アリーナは立ちあがって、アンコールを要求しています。
 
自分は、「そう言えばDear Mr. Fantasy」が無かったな・・・」と考えていた矢先に、アンコールにイントロが流れます。

 
「えっ、これでは乗れないのでは・・・」と心配しましたが、案の定立ちあがった人達はしかたなくゆっくり、身体を揺すっています。
 
そのまま「Cocaine」に移行して、少し会場が救われて、終了。
 
「Cocaine」もアンコールの乗りには今一の感が・・「After Midnight」か 「Crossroads」だったんじゃないかなど余分なことを考えつつホテルに帰ります。
 
11時までやってる飲み屋を教えてもらって、地酒で余韻を楽しみました。
 

※【註】神様が「憧れの人」とリラックス共演 2011.12.7 産経新聞ニュース記事
 
≪エリック・クラプトンとスティーヴ・ウィンウッドの来日ツアー≫
ロック音楽の黎明期である1960年代から第一線で活躍する英国の2人の大物、エリック・クラプトン(66)とスティーヴ・ウィンウッド(63)が11月17日から今月(12月)10日まで来日ツアーを展開している。
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60年代末、スーパーグループのはしりと言われたバンド「ブラインド・フェイス」で共演した2人が2008年2月、ニューヨークで催した3日間限りの再会公演を日本で再現した訳だが、ウィンウッドを尊敬し続けるクラプトンのリラックスした演奏と、通を唸(うな)らせるウィンウッドの名人芸が聴衆を圧倒した。
 
<我が心の「歌声」> 
米黒人ルーツ音楽、ブルースの求道者として、欧米では同業者も憧れるクラプトン。
 
米の権威ある音楽誌ローリング・ストーンが先ごろ発表したベテランロックギター奏者ら約60人が選んだ「ギタリストベスト100」でも、クラプトンは1位のジミ・ヘンドリックス(1942〜70年)に次いで2位だった。

そんな彼の憧れがウィンウッドなのだ。2007年に欧米で出た初の自伝で彼は、1960年代に組んだハードロックトリオ「クリーム」にウィンウッドを加入させたかったと告白。
 
「彼がライブハウスで歌った『我が心のジョージア』に大いに感動した。
 
当時彼は15歳。だが目を閉じて聞けば、まるで(この曲を有名にした)米大物ソウル歌手、レイ・チャールズが歌っているようだった」と絶賛するなど、今も彼に憧れ続けていることを示す記述が少なくない。 
 
<譲り合う演奏> 
そんな米黒人ルーツ音楽を探求し続ける2人の11月22日、大阪城ホール(大阪市中央区)での公演を見たが、1曲目に披露した「ブラインド−」時代の「泣きたい気持ち」(69年)で2人はストラトキャスターを抱えて登場、聴衆が沸く。
 
クラプトンがストラトを手にしたきっかけが、実はウィンウッドが弾いていたから、というのは有名な話だ。 それを示すかのように、互いに譲り合うような2人のギター演奏は実にほほ笑ましい。
 
その後も「グラッド」(70年)や「ディア・ミスター・ファンタジー」(67年)など、ウィンウッドが67年に組んだバンド「トラフィック」の楽曲も披露される。
 
ウィンウッドの知的なキーボード演奏とソウルフルな歌声が冴え渡る。米黒人ルーツ音楽に根ざした実験的なサウンドは今もユニークだ。 
 
<偉業を称える姿勢> 
そして中盤、公演のハイライトといえる「我が心のジョージア」をウィンウッドがオルガンによる弾き語りで熱唱した。彼がバンド「スペンサー・デイヴィス・グループ」時代の66年にスタジオ音源で発表したが、この歌声を一番聴きたかったのはクラプトンに違いない。 
 
終盤には2人でジミヘンの「ヴードゥ・チャイル」(68年)までカバーするなど、互いに超大物になっても先人の偉業を称える姿勢を忘れない。 
 
クラプトンは「ワンダフル・トゥナイト」(77年)など十八番も披露したが、ウィンウッドにメーンを譲りつつ、堅苦しい求道者のイメージを捨て去り、自らの演奏を大いに楽しんでいるようだった。(岡田敏一/SANKEI EXPRESS)
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2011年08月19日

Cotton Club

ワシントン・ナショナル・ギャラリー展を満喫して、国立新美術館の地階のカフェで一休み。
 
ちょっと早めですがCotton Clubに向かいます。
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Cotton Clubのサイトの説明を引用させていただきます。
 
「デューク・エリントン、キャブ・キャロウェイ、リナ・ホーンら、音楽史にその名を刻む大スターたちを誕生させた伝説のクラブ『COTTON CLUB』。
 
それは、禁酒法時代の1920年代、N.Yハーレムで最も輝いていたナイトクラブです。
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「Club Deluxe」とも呼ばれたその店には、連夜、着飾ったセレブリティたちが集い、最高峰のエンターテインメントを愉しむと同時に、社交の場として華やかなシーンを創り出していたのです。
 
その『COTTON CLUB』の黄金期にあった華やぎや活気を甦らせたい。そして、現代にふさわしい大人のための社交場にしたい。
 
2005年11月22日、そのような熱い思いを込め、エンターテインメント・クラブ『コットンクラブ』は東京・丸の内に誕生しました。
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海外アーティストを中心とする実力者たちが繰り広げるエキサイティングなライヴ、大人たちのくつろぎの夜にふさわしいエレガントで落ち着いたインテリア、細やかなおもてなし、そしてステージと共に堪能する本格的な美味の数々。
 
現代のセレブリティのための空間『コットンクラブ』から、いま新たな伝説が羽ばたいています。」 
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ニューヨークではJazz Clubでもフラッシュさえ焚かなければ撮影は自由でした。日本は美術館でも博物館でも撮影禁止ですし、中での撮影はできないだろう。
 
預けてしまおうかなとクロークで訊くと、演奏時間以外なら撮影はOKとのことで、カメラは持ち込むことに。
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今日の演奏はギターChuck Loebのバンドです。フィーチャリングボーカルは奥様のCarmen Cuesta。

Wikipediaの日本語版に下記のような彼の紹介がでていましす。
 
今まで外国の音楽家をWikipedia日本語版で探して、見つからず、英語版に飛んでようやく見つかる場合が多々ありました。
 
要するに日本での知名度を測るスケール代わりになるような気がして面白いと思っているのですが、Chuk Loebは日本語版で見つかったということです。
 
Chuck Loeb(Chuck Loeb)は1955年ニューヨーク生まれ。
 
バークレー出身で、ニューヨークのフリーランスギタリストとして活躍し、Stan Getzのバンドに参加していた時にシンガーソングライターの奥さんと知り合った。
 
昨年、Lee Ritenour達のFour Play にLary Carltonの後任として参加することになったとのことです。
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Cotton Club
 
演奏の記憶が詳らかではなく、You Tubeを当たってみると、多くの動画がアップされています。
 
ストーンズのCharlie Wattsがドラムをたたいている"Satisfaction"がありました。

 
この間見たふくよかで穏やかなおじさんの姿から想像出来ないほど、ピリピりした感じの"Come Together"

 
奥さんも昔はきれいな人でした、って失礼な言い方だけど・・・自分の大好きな唄、Stingの"Shape Of My Heart"を歌っている動画がありました。
 

一通り、演奏が終わりアンコールはお二人のデュオで締めくくり。
 
これで終わりかと思ったら、お店のアナウンスでお誕生日の人が呼ばれて、皆の拍手の中、ケーキが運ばれて行きます。
 
「うちも申し込んでおいたんだよ」って、奥さん。
 
最後に「くま」夫婦もアニバーサリのアナウンスがあり、ケーキが運ばれてきました。a0702050.jpg
 
しかも、他のお客さん達は入れ替えのため退席していきますが、我々は広い席に移って、ケーキと一緒に記念撮影をしてもらいます。「ゆっくりお召し上がりください」と・・・
 
と言われてもあまりゆっくりできる性格でもなく、そこそこにケーキをいただき、大満足で帰りました。
posted by くまじい at 21:09| Comment(0) | 音楽話

2011年08月15日

たなばたコンサート 0701

敦賀短期大学地域交流センター主催の年2回のミニコンサート。今回は「たなばたコンサート」です。
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昨年末、クリスマスコンサートに五縁の孫娘二人を連れてったので、今回はどうかと問い合わせると、上の娘は中学に上がって、部活と宿題で忙しくてとても行けそうもないけど、下の娘は行きたいとのこと。
 
二人っきりのおデートに緊張・・・することもないか・・・
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今回はフルート(嶋 沙織さん)とピアノ(橋本 美恵さん)にソプラノ(舛野理紗さん)のトリオの演奏でした。
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馴染みのある曲名、皆の歌える曲に含めて、フルート、ピアノ、唄のそれぞれ難度の高い演奏を試みて・・・
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自分は演奏そのものを楽しみたいので、無名であろうとも、面白い曲をもっと演目に入れてほしい気もするけど・・・
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皆が楽しく過ごせるように懸命に考えて企画さているのだと思います。
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演奏の合間にフルート(?)が配られ、演奏が体験できるとのこと。
 
5本しかないので手を挙げてくださいとのこと。隣を肘で突くと、おずおずと手が上がります。
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写真では判りにくいけどコルクで片方の穴をふさぎ、息を吹き込む穴を開けたビニルパイプのフルートです。

なかなか音が出ず、帰ってからも懸命に練習していたようです。
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楽器は高額でなかなか手を出しにくいけど、こんなフルートで音が出た喜びが、いつか何かのきっかけにななるかもしれない。
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そういう意味で音を出す喜びを与えるという試みはいいなと思います。
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またクリスマスのコンサートでの企画を楽しみにしていたいと思います。
posted by くまじい at 21:15| Comment(0) | 音楽話

2011年08月08日

1枚のCD 「Shaking Hands with Love & Death」

昔、ブラザース・フォアで聴いた「St. Jamse Infirmary」を無性に聴きたくて、You Tubeで探したのがきっかけです。
 
確か、これもカタカナで歌詞※を覚えた記憶があります。
 
「アイ ウェン ダウン ツー ザ セイント ジェームズ インファーマリ・・・」てな感じでしたか・・・「Green Fields」と同じように、引きずる様な感じのブラ・フォーの唄が聴きたかったのです。
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<Leah Orlikowski が世の中に出るきっかけとなったデモCDジャケット> 

残念ながらブラザース・フォアの動画はアップされておらず、それなら・・・と色んなアーティストの「St. James Infirmary (Blues)」を見つけて、サイドバーに貼りつけました。
 
それは求めていた、ブラザース・フォアの唄とは異なるものばかりでした。

その中で、まず、唄のない、Allen Toussaintの演奏にメロメロになってしまい、この動画のタイトルに使用されていたCD「The Bright Mississippi」をAmazon.comでゲット。
 
お気に入りの一枚になってしまいました。

 
実は、Allen Toussaintがバックで演奏している中島美嘉の「YES」まで買ってしまうという、おまけまでついています。

彼女がハリケーンの大洪水の後遺症で苦しんでいたニューオリンズに激励に行って、地元でAllem Tossaintとコラボした激励ソングを製作したというものです。

さらに、と探しているうちに、Leah Orlikowskiにぶち当たってしまいました。 
なんなんだ、この女は・・・なんでこんなに魅かれてしまうんだ・・・
 
You Tubeにあった他のLeahの唄も貼りつけて、飽き足らずにネットで調べまくりました。

 
ヒットしたと思ったら、自分と同じように「The Saint James Infirmary」が好きで色々な演奏を貼りつけて、構成しているブログで、思わず、ニヤリ・・・
 
その人もLeahを評価していたようです。似たような嗜好の人なのかも知れない・・・

Leah OrlikowskiのFace Bookから、ようやく彼女の「Leah Orlikowski.com」に到達。※
 
※今年1月にホームページが閉じられてしまったようです。追記参照ください。

と言ってもMy Bioとか言って、17歳の時から唄を始めたとかの独白の雑記帳みたいな極めてプライベートなホームページです。
 
同サイトに「The Saint James Infirmary」が入ったCD 「Shaking Hnads With Love & Death」が載っており、CDBABYというところを通じての購入方法が紹介されていました。このCDはAmazon.comではヒットしません。
 
料金は13ドル程度、送料8ドル・・・えいやと申し込んで10日程してから、厳重な包装を施されたCDが届きました。
 
今・・・このCDの虜です・・・
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演奏は彼女のギターに時々、フィドル、スチール、フラットマンドリンなどが入るだけのシンプルなもので、彼女のブルースが貫徹します。
 
彼女の上記サイトでサンプル曲の試聴が可能です。
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ちなみに、You Tubeは諦めて、ブラザーズ・フォアのCDで「The Saint James Infirmary」の入ったCDを求めようと思い、探しました。
 
下記のCD「B.M.O.C」には入っているようです・・・価格が10,850円・・・誰か、You Tubeにアップしてくれないかしら・・・
BMOC
 
LoveCMS(洋楽歌詞) から歌詞をお借りしました。
 
『Saint James Infirmary』
 
I went down to the St. James Infirmary,
Saw my sweet baby there;
Lying still and quiet,
So cold, so young, so fair.

Let her go, let her go, God bless her,
Wherever she may be,
She may search this wide world over,
But she'll never find a man like me.
No, she'll never find a man like me.

I went down to the St. James Infirmary,
All was still as the night;
My gal was on the table,

Stretched out so pale, so white.

Though she treated me, mean and lowdown,
Some how I just didn't care;
My soul is sick and weary,
But I hope we meet again, up there.

Let her go, let her go, God bless her,
Wherever she may be;
She may search this wild world over,
But she'll never find a man like me.
No, she'll never find a man like me...
 
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2010年12月11日

敦賀短大クリスマスコンサート1210

今日は恒例の敦賀短大のクリスマスコンサート。久々の若い女の子とのデートで緊張です。しかも二人も・・・
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写真は緊張で震えてるわけじゃなくて、シャッター速度が遅すぎで耐えきれずに、イルミネーションもVサインも多重になってしまいました。一番ぶれてるけど笑顔が一番良い写真を・・・
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今回のコンサートはニ胡とピアノとヴォーカルという面白い組み合わせです。
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中国の楽器とクリスマス?っていう感じだったけど、二胡のパフォーマンスの「川の流れの様に」、「虹の彼方に」は最高でした。人柄も面白そうな小林寛明さんの演技に魅せられてしまいました。
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小さい方が二胡で、大きい方は全く同じ構造だけど少し低い音になる中胡と呼ぶ楽器なのだそうです。
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ピアノの方は、ポツンと座っていると普通の優しいおじさん(粟田部で地味にくらしているのでジミ・あわたべさんという舞台ネームなのだとか)なのですが、演奏が始まると突然ジャズピアニストに変身っていう、唖然とするような熱演を見せてくれました。
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短大の非常勤講師の近藤芽衣先生の司会とボーカルで進行。
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アンコールの「アメイジング グレース」は先生の得意分野のゴスペルということで大盛り上がりでした。お客さんにお年寄りが多くて、乗りの悪いところも多少あったかもしれませんが・・・
 
眠そうだったお姫様も「あの曲知ってる」って、TV漫画の中で出てきてたらしい。そう言えば、ちょっと昔に本田美奈子で世間に流れていたのを思い出しました。
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正直言うとこのコンサートはこう言う催し自体の心意気を応援すると言う気持ちで参加してきたのだけど、今夜は本当に素晴らしく、面白い演奏で、心から楽しめて、満足でした。
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最後の挨拶で学長は今後も色々な楽器を紹介して行きたいと仰っていました。さらに、学長の紹介で、演目の一曲である「雪の降る街を」の作詞、作曲コンビの内村直也と中田喜直が敦賀短大の校歌を造られたということを知りました。いつか聴いてみたいと思います。
 
コンサートの後は3人で五縁のカウンターに並んで、2人は紅茶とコンサートで出てきた短大特製のパウンドケーキを、「くま」はお酒とハイボールでデートの仕上げをしました。
posted by くまじい at 06:25| Comment(0) | 音楽話

2010年03月21日

黙祷・・・

今、サイドバーの「僕の音楽」に貼り付けているAaliyah(アリーヤ)。大分前に自分がアメリカで入手したアリーヤのCDは彼女の3枚目のアルバムでした。音も知らずにジャケット写真だけで選んだのですが、今改めて見てもいい写真、いい女だと思います。
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amazon.com(以下ジャケット写真全て)
 
CDの中身も気に入ってて、その後名前を見ることもなく、(と言って音楽情報には疎いので当たり前なのですが・・)どんな曲が他にあるかなとYou Tubeで探してみようと思いました。下の「Rock  The Boat」のビデオの冒頭に1979年〜2001年の記述が・・・なんだ?なんだ? 

 
調べるとアリーヤに関して以下の様な記事がありました。(Wikipedia)
 
「1979年ブルックリン生まれ。1994年、15歳のときに、デビュー・アルバム『エイジ・エイント・ナッシング・バット・ア・ナンバー』その後1996年『ワン・イン・ア・ミリオン』、2001年、『アリーヤ』をリリース。
 
 
2001年8月25日、バハマでの『Rock The Boat』のプロモーションビデオ撮影を終え、セスナでフロリダへ向かうも、離陸直後に墜落、22年の短い生涯を終えた。
 
整備不良、過積載、パイロットの薬物(あるいはアルコール)摂取などが事故原因と言われている。
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女優としても人気が高く、『ロミオ・マスト・ダイ』(2000年)でジェット・リーと共演。同映画主題歌『Try Again』がヒット。『マトリックス・リローデッド』に出演、『マトリックス・レボリューションズ』の出演も決定していた。
 
映画として遺作となった『クイーン・オブ・ザ・ヴァンパイア』が2002年公開されている。」
 
日本でも宇多田ヒカルなどアリーヤに注目していた人が多かったのだそうです。今年、彼女を題材にした映画の制作が始まるというニュースもありました。
 
自分は自分の持っている一枚のCDしか知りませんでした。上に張り付けたビデオが本当の最後の作品ということのようです。

 「僕の音楽」に貼り付けている歌手達のうち、アリーヤのように既に亡くなっている人が他にも居ます。まあジョージ・ハリスンはそれなりにお歳感もあるけど他の人は・・・若すぎる死としか言いようがありません。
 
フリーのポール・コソフ(ギター)26歳                  【オーバードース】
リトルフィートのローウェル・ジョージ(ボーカル、スライド)34歳      【心臓発作】
レーナード・スキナードのロニー・ヴァン・ザント(ボーカル)29歳他    【飛行機事故】
ジョージ・ハリソン58歳                           【肺がん、脳腫瘍】

<レーナード・スキナード(ロニー・ヴァン・ザント)>
 
Wikipediaで「夭折」という言葉を引くと色々な分野で若くして亡くなった人の名前がでてきます。アリーヤ をはじめとした音楽関係の人を列挙すると以下のとおりです。「若くして」ということだと、ほぼ40代までに亡くなった人なのかなと思います。他でし調べた情報も足してみました。正直言って音を全く聴いたことのない人も並んでいます。
 
【飛行機事故】
リッチー・ヴァレンス17歳+バディ・ホリー25歳  
オーティス・レディング26歳     
ランディ・ローズ(オジー・オズボーン・バンド) 25歳
ロニー・ヴァン・ザント(レーナードスキナード)29歳
アリーヤ22歳
 
【交通事故】
エディ・コクラン 21歳
マーク・ボラン (T・レックス)29歳 
デュアン・オールマン (オールマンブラザーズバンド)25歳
 
【事故死】
キース・レルフ (ヤードバーズ) 33歳      <感電>
テリー・キャス (シカゴ) 31歳           <拳銃暴発> 
スティーブ・マリオット(スモールフェイセス)   <火事> 
ブライアン・ジョーンズ (ローリング・ストーンズ)27歳 <プールで溺死、不審死>
ジョン・ボーナム( レッド・ツェッペリン)32歳   <過飲>
ボン・スコット( AC/DC)33歳            <過飲?>
※アルコール過飲も一種のオーバードースかもしれません。
 
【オーバードース】:薬物過剰摂取
シド・ヴィシャス (セックス・ピストルズ)21歳 
ジャニス・ジョプリン27歳   
ニック・ドレイク 26歳 
ジミ・ヘンドリックス27歳  
ジム・モリソン(ドアーズ)27歳  
トミー・ボーリン( ディープ・パープル等)25歳  
キース・ムーン( ザ・フー)31歳  
ポール・コソフ(フリー)26歳
 
【病気】
スチュアート・サトクリフ (ビートルズ」の初期メンバー)21歳  <脳出血>
フレディ・マーキュリー 45歳                     <HIV>
ローウェル・ジョージ34歳                      <心臓発作>
 
 
<リトル・フィート(ローウェル・ジョージ)>

【自殺】              
カート・コバーン (ニルヴァーナ)27歳
リチャード・マニュエル( ザ・バンド)41歳

【殺人】
ロバート・ジョンソン27歳 
ジョン・レノン40歳
     
音楽をやっている人たちに、オーバードース(薬物中毒と言うのは差別用語になるそうです)による死が多いのが特徴かもしれません。病気や、事故死の中にも薬物が絡んでいるものがあって、薬物起因の死亡は本当はもっと多いのではないかと思います。
 
飛行機事故と言うと、ゴルフのペイン・スチュワートが全米オープン優勝後間もなく自家用飛行機で墜落死したことが記憶にありました。確認すると1999年のことでアリーヤより古い話でした。
 
飛行機事故が比較的多いことがアメリカらしいと言う感じがします。
 
飛行機事故の確率は極めて低いのだと思いますが、音楽をやる人達は一般の人より、移動機会が圧倒的に多いために、事故に遭う率は高くなるということでしょう。
 
アメリカやヨーロッパのローカルで小さい飛行機に初めて乗った時は恐怖そのものでした。でも、地元の人たちが電車やバスの感覚でせわしなく乗り換えて行くのを見てると、恐れているのがおかしく思えてきた覚えがあります。
 
飛行機事故で亡くなったロニー・ヴァン・ザントとアリーヤ、そして病気で亡くなったローウェル・ジョージに黙祷をささげたいと思います。

【余談】
アメリカの技術者が何回か敦賀に来ています。自分の車でピックアップすることが多いのですが、以前に車に流れていたボニー・レイットを聴きながら、彼がボニー・レイットの弟と知り合いだという話を聞き、「アメリカ人だ!」とつまらぬことに感激したことがあります。
 
また、ある時はトニー・ベネットが流れていて「トニー・ベネットは朝は聴くものじゃないね。眠くなる。」、翌日はタミア。自分の音楽ジャンルがメチャクチャだと思ったらしくて、「俺はタミアが好きなんだけど、お前は音楽をどうやって知るんだ?」と聞いてきました。
 
「CDショップでジャケット見て、いい女やセクシーな女だったら買うんだよ。」「そうか・・俺は・・お前がトニー・ベネットのジャケット見て、その気になって買ったのではないことを祈ってるよ」
posted by くまじい at 03:00| Comment(3) | 音楽話

2010年02月25日

懺悔

2年目のブログは懺悔からスタートです。

自分が好きと称しているポール・ロジャーズをYou Tubeで見間違えた、というドジなお話です。You Tubeはこのブログを始めるまで閲覧したことはありませんでしたが、記事を書く時の音楽のネタを探して観るようになりました。
 
色々なアーティストを観ることができますが、ブログに張り付けられるものが限定されていたり、探しているアーティストの曲がほとんど公開されていないなど、お気に入りはなかなか見つかりません。
 
Freeの「Fire and Water」という曲が好きで探したのですが、なかなかありませんでした。下はFree解散後、25年も経たポールの「Fire and Water」 です。

Freeの演奏をようやく見つけたと思って、喜んでブログに貼り付けたのが下記でした。
 

言い訳に聞こえますが、密かに下記の疑問がありました。

@Freeにキーボードが居る・・・
A最近のポールを見ると、どちらかというと志村けんみたいな容貌と体型なのにスタイルが良すぎる・・・
Bちょっと声が太い気がする・・・

なんのことはない・・・Freeのアルバムタイトルから名づけられたTons of Sobsという日本人バンドの演奏だったのです。正直いうとこのバンドの演奏はFreeをソリッドにした感じでお気に入りになっています。ブログもそのままにしておきます。

まあ、本物を見分けられない、「三流芸能人」以下の位置にいることがよく判りました。
 
開き直ってもしょうがないので・・これからも、知ったかぶりをせず、思い込みを排して、身の丈で生きて行くよう努めます。 ってちょっと大げさかしら・・・
 
これは絶対ポールが唄っています。(と思います・・・)

Paul Rodgers, Buddy Guy "Muddy Water Bluses"
posted by くまじい at 23:50| Comment(0) | 音楽話

2009年10月31日

セカンド フレーズ

大学浪人時代に聴いていたイムジチの「四季」をきっかけに、ちょっとバロックを聴きかじり、大学初期の頃は、バロック喫茶(というのが昔はありました・・・)で時々時間をつぶしたりしていました。
 
そのうち、主に雀荘に、他は「レノン」という名前から内容が想像できる喫茶店に出没するようになりました。レノンには大学の友人もいましたが、学校以外の友人もできる場になりました。
レ促ン

学校でも、周りに音楽が好きな人間が結構いて、数少ないレコードを交換しあって、自分の守備範囲が広がって行きます。なかにはブルースが好きで、持っているレコードの数も半端じゃない人間もいて、色々教えてもらいました。さすがに「ハマっ子」っていう感じでした。
Cream Disraeli Gears
 
範囲が広がったと言っても、世間でヒットしてたものが主体で、あまり通が聴くようなものではありません。・・・・クリーム、ツェッペリン、ヤードバーズ、パープル、キンクス、アニマルズ、テンイヤーズ、フー、クリムゾン、ピンクフロイド、ムーディブルース、EL&P、ELO、フェイセス、トラフィック、ブラインドフェイス、サバス、フリー、ドアーズ、BS&T、CSN&Y、D&B、グランドファンク、クリーデンス、オールマン、スリードッグ、ドゥービー、バンド、ポコ、バーズ、ジェファーソン、ヴァニラファッジ、ジミヘン、サンタナ、シカゴ、コッカー、レオン・ラッセル、ジャクソン・ブラウン、ジェームズ・テーラー、ジョニ・ミッチッェル、マーク・ベノ、ジャニス・ジョプリン、・イアン、ニルソン・・・・(略称は自己流でめちゃくちゃです。)モアポピュラーだとビートルズ、ストーンズ、サイモン&ガーファンクル、ビーチボーイズ・・・
 
ここはクリームかツェッペリンかなとYou Tube見てたら、テンイヤーズアフターの「I Woke Up This Morning」がありました。それ程入れ込んでたグループではないけど、この曲は好きでした。ギターの古そうな感じの音も含めて懐かしいです。

ブルースというと、BB.キングとか、バディ・ガイとかロックの人と交わりがある人の音楽は聴くことはありましたが、初期のブルースにはちょっとついていけない感じでした。
BBking
 
最近、ロバート・ジョンソンの日本盤3枚組CD「コンプリート レコーディングス」を買いました。「Cross Road Bluse」、「Sweet Home Chicago」、「Com'on in My Kichen」など・・・ロックの誰かで聴いた唄が並んでいます。
歳とったせいなのか、ただ単に、音楽の傾向が変わって来ただけなのか、あるいは深まる秋のせいか・・・心に響きます。
Robert Johnson Complete Recordings.jpg 

 
40年前にブルースにハマっていた「ハマっ子」は、会社に入ってから休みもらって、ブルース求めて1人でニューオリンズを彷徨ったりしてましたが、その後は結構、普通のサラリーマンしてました。もうあいつも定年だけど・・
 
大学の仲間うちでは、「ニューミュージック マガジン」が浸透し始めて、読んでいないと話題についていけない様な状況になり、毎号購読するようになります。
 
「ニューミュージック・・」を知る前だったのか、その後も時々読んでいたのか思い出せないのですが、周りが無視する「ミュージックライフ」を目を通していたときも有ったようです。
Music Life

実は、今でも記憶に残っているのは「ニューミュージック・・」の方でなくて「ミュージックライフ」の記事です。
 
「フリーの新宿でのエキセントリックライブ」と「ジミー・ページのインタビュー」記事でした。前者はポール・ロジャーズの話の時に書きましたが、地方都市に居たゆえにそういう現場に立ち会えないつまらなさを感じました。グランドファンクレイルロードの雨の後楽園ライブでは椅子の上で飛び跳ねていましたが・・
Fire and Water.jpg

ジミー・ページのインタビュー記事と言っても覚えているのは2箇所だけなんですが・・・
LED Zeppeline small
ワーナーミュージック"Led Zeppelin"

一つ目は、どんな友人が居るの?みたいな部分だったと思うのですが「アメリカで自分の名前のバンドやっているジョー・ウォルシュってのがいる。」というような記述でした。ウォルシュは後に、イーグルスのリードギターに迎えられ、ヒットアルバムの製作に参加しています。
Eacled 呪われた夜

2つ目は、家ではどんな音楽を聴いているの?っていう質問でした。「主にバート・ヤンシュのアコースティックギターを聴いているよ。」 その時、バート・ヤンシュの名前は知りませんでした。
 
この話を「ハマっ子」に話したら、「これだよ。」って出してきたのがバート・ヤンシュとジョン・レンボーンの結成したペンタングルのファーストアルバムでした。
PENTABGLE

ペンタングルはブリティッシュ トラディッショナルと呼ばれるフォークに分類されていますが、借りてきて聴いたレコードはトラッドを素材にしているのかも知れませんが、ギターの名手、ヤンシュとレンボーンの張り合いとベース、ドラム、ジャッキー・マクシーのボーカルの5人が、それこそ5角形の関係で競い合い、緊張感溢れるレコードでした。
pentangle1pb1
http://soundsfromthespring.blogspot.com/2008/07/pentangle.html
 
その後のアルバムはどちらかと言うと、緊張感というよりひたすらトラッドを追求すると言う感じで、バート・ヤンシュのぶれないトラッド指向のアルバムが続きました。
Pentangle Basket Of Light

ブリティッシュ・トラッドという範疇ではサンディー・デニーの居たフェアポート・コンベンション、サンディーの抜けた後のフェアポート・コンベンション、抜けたサンディがその後結成したフォザリンゲイなどを聴いていました。
Fairport Convention

サンディ・デ二ーの唄を聴いていると風の吹き荒れるスコットランドの荒野の中を彷徨っている芝居の主人公のような気分になります。(・・・って、わけが判らない?)これがブリティッシュ・トラッド特有の唄い方によるものなのか、彼女の声そのものがそう感じさせるのかよく判らないのですが・・・
Fortheringay
 
ジミー・ページは4枚目のアルバムの「限りなき戦い」でロバート・プラントとサンディーをからませます。ページはヤンシュのギターに着目しているのと同時にトラッドにも興味があったということなのかと思います。
Led Zeppelin W
 
フェアポートの仲間で甘い声のイアン・マシューズが結成したマシューズ・サザンコンフォートも聴いていました。トラッドにはこだわらないマシューズの優しい世界を追求すると言う感じでした。
Mathews Southernconfort
 
ちなみに「サザンコンフォート」はジャニス・ジョプリンが愛したお酒の名前で、舞台にはいつも用意されていたそうです・・一度試しましたが自分には合わないなと言う感覚だけ覚えています。・・
southern_comfort
<サントリーで輸入しているようです・・>

さらに・・・「You Keep Me Hanging On」という曲で日本でも大ヒットしたヴァニラ・ファッジ。アメリカの食品スーパーでヴァニラ・ファッジというお菓子を見つけた時にはちょっと興奮して思わず買ってしまいました。甘くて甘くて、とても食べられる代物ではありませんでした。ネットで探してもヴァニラ・ファッジは見当たりませんでした。関係なくチョコ・ファッジの写真です・・・これはおいしそうです。
チョコファッジ
http://www.recipe-blog.jp/blog/sola/2009/02/post-28.html
 
脱線しました。このほかにもトラッドにはスティールアイ・スパン、アン・ブリッグスなど、いますが深く聴くまでは至りませんでした。
 
ブラザース・フォーから始まった自分の音楽歴は、範疇としては随分広い音楽を聴くようになりましたが、結局気がつくとアコースティックの世界というかフォークが根底にあるのかなと思います。また、楽器の音色は何でも好きですが、最後にはギターに惹かれてしまうというのも、やはり出発点に関係があるのかなと思います。ただし、自分の指の短さをうらみつつ、ギターを自分で演奏することはあきらて、聴く専門になっています。
posted by くまじい at 17:28| Comment(0) | 音楽話

2009年06月30日

はじめの一歩

我が家だけだったのかもしれません。父が工作好きだったこともあると思いますが、我が家のAMラジオは、専用の吊り棚に大事そうに置いてありました。小学生の自分でも操作できる高さで・・

小学4年の時に我が家にテレビが来ました。使用しないときには埃避けのカバーが掛かっていて使用するときにはそのカバーを開けてみることになっていました。
 
似たような画像をさがしましたが、ちょっとありませんでした。昔のテレビは木目調というか、茶色のものが多かったような気がします。
真空管テレビ
 
テレビがきたのが日曜で、その夕方、大村崑と佐々十郎の「やりくりアパート」を見ました。三輪トラックのミゼットの宣伝で有名な番組 です。
大村崑 
ダイハツミゼット
<Wikipedia>

我が家にテレビがくるまでは、年末に近所の家に呼んでもらって紅白歌合戦を「観戦」した記憶があります。自分がその頃どんな音楽が好きだったかは記憶にありませんが・・・
 
3年生の時に「お風呂」が家の中にある集合住宅に引っ越しましたが、それまでは家に風呂もなく、銭湯に行っていました。テレビも風呂もない生活だったということです。
 
父は巨人、力道山、卵焼きの人だったので・・・相撲はまだ大鵬ではなく、吉葉山の時代だったと思います。その後、父は川上に追い出されたも同然の水原に同情して、アンチ巨人で、東映フライヤーズファンになり、駒沢球場に通うようになりますが・・
力道山
<Wikipedia>

金曜日に父と一緒に銭湯に行き、帰りに蕎麦屋に寄り、三菱ダイヤモンドアワーの力道山を見ていた記憶があります。ご飯の後だったと思うので、かき氷とかを食べていたのだと思います。
力道山3 

子供心にいつも時間どおりに終わるのがすごいなあと思っていました。当時は録画ではなく、生放送で力道山が残り時間を見ながら相手を倒していると、本気で信じ込んでいたんだと思います。

テレビと力道山ではなく、ラジオの話でした・・・
 
テレビが家に来ても、まだテレビの放送の時間が限定されていて、今のように朝の時計代わりに見るような番組はなかったのか、あるいは朝の忙しい時に見るものでないということだったのかもしれません。
朝はテレビの出番はなく、ラジオがほとんどでした。
 
小学5年あるいは6年の時だったと思います。朝のラジオからブラザース・フォアの「Green Fields」が流れました。
Brothers Four

今まで、唱歌と大学のダンス部に属していた兄の聞くラテン音楽と父の愛する演歌が周りにありましたが、あまり興味がありませんでした。
ペレス プラド
<ペレス プラド>

「子供は外で遊ぶことが本業」を実践していたので、音楽が入り込む余裕もなかったのかと思います。その屋外派の心に「Green Fields」は沁み入りました。「Once, there were green fields ・・・」というOne wordずつ区切るような歌い方の出だしは今でも格好いいなと思います。ミッチ・ミラーのTV番組で唄っている「Green Fields」です。

 

兄が自分も興味のある物を買って来いと金をくれたのか?自分のお小遣いで買えたのか?覚えてはいませんが、当時は色んなヒット曲を雑多に集めた楽譜本が売られており、そのうちの一冊を買ってきました。
 
「Green Fields」とともにやはりブラザーズ・フォアが歌っていた「Greensleeves」も載っていましたが兄の好きそうな「ベサメムーチョ」、「ある恋の物語」とかのラテン音楽からミュージカル「南太平洋」の「バリハイ」とか「魅惑の宵」とかの映画音楽が載っており、(なんという選曲センスかと思いますが)歌詞の英語やスペイン語にカタカナの振り仮名が振ってある譜面集でした。
トリオ ロス パンチョス.jpg 
南太平洋.jpg

それらの歌をカタカナで覚えつつ、アメリカのフォークソングに興味を持つようになりました。と言っても「ステレオ」というレコード再生機器が我が家に登場するのは高校1年の時ですから、まだレコードを聴く手段もなく、ひたすらラジオで聴くだけだったのですが。
 
中学に上がってキングストン・トリオ、 PPM 、ジョーン・バエズ、ボブ・ディラン・・・などと知り始めましたが、ブラザース・フォアは最初のインパクトがあり、その後も「Four Strong Winds」「7つの水仙」などヒットも多く、一番親しみがあったグループでした。
キングストン トリオ 
ピーターポールアンドマリー.jpg 
ジョーンバエズ.jpg 
ボブディラン
 
フォークのイメージはアコースティックギターや、バンジョーとアコースティックベースというイメージでしたからボブ・ディランがエレキギターを使いだしたとき、批判するファン達もいました。自分も昔は音楽に関しては結構保守的な人間で、「今まであるもの」からなかなか抜けきれず、Newディランには付いていけない派でした。
 
大学に入ると様変わりとなり、音楽は何でも来いの状態になりましたが、ディランのバックでやっていたThe Bandはその後単独に活躍しており、力強く、泥臭い音が好ましく、むしろ好きなグループに入ってきました。
the band

ディランの「電化」に付いていけなかったように、フォークに拘泥して、ビートルズの登場にもちょっと抵抗していました。
 
おれはフォーク派・・・ってなことですが・・ラジオの音楽番組は昔、リクエストでベストテンを付ける番組が多かったのですがそれらの番組のベストテンの半分がビートルズの出したアルバムからの曲を占める状態になり、フォークがラジオから流れることが少なくなりました。
Beatles
 
話は変わりますが、中学時代、高校入試に音楽は必須で、入試ではクラシックの楽譜を見て曲名を答えるという問題が必ずあり、そのため、音楽の授業では名曲のレコードを聴く時間がありました。
 
楽譜を読むなどという離れ業は自分にとってはありえず、必死に曲を覚えました。メロディが判れば、頭の中で唄って音符の上下と長さを追うことで、大体の曲は判ります。
 
クラシックを覚えようと何回も聴いていると、クラシックもいいなあと思いだすようになりました。高校1年で「ステレオ」が来たときの一番最初のレコードはドボルザークの「新世界」でした。

クラシックは、その後、兄が買ってくれたものと思いますがベートーベン交響曲全集とモーツアルト、ハイドン等の名曲全集が家にあり、聴いていました。
 
よく覚えていませんがヒット曲はラジオで聴けるのでレコードで買う必要がない・・という様な論理でレコードはクラシックが多かったのかと思いますが、まあ、お小遣いの少ない身分で好きなレコードを買うことも出来なかったのだと思います。
 
大学の初期にバロック喫茶に通ったりしましたが、だんだんと「ロック」が頭の中を占め始めて。じっくりクラシックを聴くという頻度が少なくなってきました。
 
話が戻ります。
 
高校にあがった時、クラスにビートルズは許せんと言ってる男がいて、聞くとプレスリーのファンだったのにビートルズに追いやられた・・・ということでした。似たような感覚を持つ奴がいるなと思いましたが、かたくなな姿を見ててこれはいけないなとわが身を振り返っていました。 
プレスリー

ラジオで聴くことが少なくなって、しばらくして、ブラザース・フォアが映画「北京の55日」のテーマ音楽をコピーしたものが流れてきました。映画を劇場で観ましたし、伊丹十三が出ていて外国映画に出る日本人がいるんだと感心し、歴史物好きなので映画は面白かった記憶があります。
 
ミッチ・ミラー合唱団が歌った主題歌も好きでしたが、僕のブラザース・フォアがなぜ・・・という思いでした。まあ「アラモ」も唄っていましたがあれはなんどなく許せたけど、「北京の・・」はちょっと違うのかな・・今考えると大したことではないように思えますが・・・
北京の55日
 
高校1年の時(だったと思いますが・・)、ブラザース・フォアの来日公演を見に行きました。後半になり、乗ってきたブラザース・フォアがビートルズメドレーを歌い始めました。「北京の55日」に「ビートルズメドレー」か・・・と、操を捧げた男に裏切られるような気持ち(?)・・・というのかなにか、拘りが解消していくきっかけだったような気がします。
 
その後、ギターでPPMのコピーのマネごとなどしていましたが、フォークにエレキを使うのは普通になってきましたし、バーズなんていうカントリーとフォークの融合でエレキを使う好みのバンドもでてきました。
 
それ以降はアメリカのフォークに限らず、何でも好きという感じになり、当時はやりの音楽を聞いていたのだと思います。
 
うちにあったレコードはプラターズ、ベンチャーズ、エンニオ・モリコーネの映画音楽集、カンツォーネなどでたらめだった気がします。ブラザース・フォアもPPMもありましたが・・
荒野の用心棒
 
高校受験の時から深夜放送がお友達状態になっていました。当時深夜になると関東のラジオはほとんど終了し、糸居五郎さん1人だけが2時か3時まで頑張っていた時代がありました。
 
糸居五郎さんのオールナイトニッポンが始まるのはまだまだ先の話だったと思います。
 
その当時、関西では深夜放送が盛んだったみたいで深夜東京のラジオが寝静まるとFENの向こう側から関西の深夜番組が唸りのように波打ちながら聞こえてきていました。
 
岡林信康や高石友也などの日本のフォークを関西のラジオ局の深夜放送で知って、密かにファンになったりしていました。
 
当時無名の尻石友也だった高石友也が岡林のことをラジオで語ったりするのを聴いていました。
岡林信康

拘泥から解放され、ビートルズもこだわりなく好きになってきましたが、ストーンズとかキンクスとか黒い色がする感じのグループも好きでした。
キンクス
 
大学に入ると、周りに音楽の好きな人間が集まっていて、自分の音楽の守備範囲が広がっていきます。色々分けられていた音楽ジャンルが幅広い意味で「ロック」という言葉でくくられる様な気がしていました。
 
中村とうようが創刊した「ミューミュージックマガジン」という雑誌が我々のバイブルのような存在になり、仲間の話し方が小倉エージの文章風になったりしてかなり感化されていたと思います。
 
幅広い「ロック」の中でもアコースティックなフォークに近い人達は相変わらず好きでした。
 
クロスビー・スティルス&ナッシュ(CS&N)は出会いがアコースティックで、後に加わったニール・ヤングも含め、好みのグループでした。
 
ちょっと長いのですが伝説の「Woodstock」の時のCS&Nの演奏です。彼らは映画「Woodstock」のテーマミュージックも唄っていました。(一度削除されました。再掲示しましたが、これもあぶないかも・・・)

ニール・ヤングと同じカナダ人のフォーク歌手、ブルース・コバーンの「High WInds White Sky」はその転がるようなアコースティックギターの音と雪のモントリオールの公園のジャケットがマッチした素晴らしいアルバムです。
51HQ02A4Q2L__SL500_AA300_.jpg
 
ブリティッシュ・トラッドという呼ばれ方をしていたペンタングル、フェアポート・コンベンション、マシューズ・サザンコンフォートなどの話・・・は尽きなくなるので、またの機会に。
posted by くまじい at 23:02| 音楽話

2009年05月30日

僕の音楽3


4、5年前になります。ポール・ロジャーズがQueenのボーカルとして加わり、来日したということを後になって知りました。

Queen+Paul Rodgers2.jpg  Queen+Paul Rodgers_photo.jpg

と知っても、自分の中ではポールとQueenの両者がどうしても結び付きませんでした。Queenの様にソリッドに音をまとめる感じの音楽と、自分の感性に忠実に歌う歌い方のポールでは合う筈がないという思いです。
 
ジャンキーが「女王様」達の仲間に入れるはずがない・・・入って欲しくないという方が正確ですが・・
 
ポールがFreeにいた時のアルバム「Fire and Water」のジャケット写真を見ると目が行っていて、薬ないしは大麻まみれという感じでこいつは危ないなと思っていました。
Fire and Water.jpg

YouTubeで見つけたアルバムタイトル曲「Fire & Water」のライブビデオです・・・※

※実はFreeではなく、Tons Of Sobesの演奏を間違えて貼りつけたものです。
 
後に同じポールでもギターのポール・コソフが薬中で死んでしまうことになるのですが。

HIVで死ぬのとDRUGで死ぬのってまあどっちがえらいってことはないか・・・写真はエイズで亡くなったフレディ・マーキュリーです。この人が生きていればポールとQueenが結ばれることは無かったのです・・
Freddie Mercury.jpg
 
アルバム「Fire and Water」は決して完成された音ではなく、隙間の多い感じの録音ですが、感性が感じられるグループでした。
 
地方都市で学生していたころ、Freeが来日して、新宿厚生年金ホール(?)で、夜遅いライブを行い、感情むき出しのエキセントリックな演奏をして観客が大興奮したという記事を雑誌で読みました。

自分達の生き方そのものをぶつけ合って音楽を搾り出している、そんな壮絶なグループという印象がありました。
 
ぶつかり合いの結果、感情の対立が生じ、その後、Freeは時を置かず解散してしまいます。日本人ベーシストの山内テツが参加したHeart Breaker というグループを結成、それもすぐ解散した後、Bad Companyが結成されました。日本人と言えばポールの奥さんは日本人でした。
Bad Company.jpg
 
ポールがボーカルをとるのですから、自分にとってはBad Companyは文句なしなのですが、正直いうと音がまとまりすぎているという思いがありました。
 
バンドと同一タイトルの曲です。  

きっとポールは音楽が大好き人間で、良い曲も造るし、表現することもできるけど、トータルコーディネータではなく、アルバムを充実させるためには他の誰かが、プロデューサーとしてサポートしてあげることが必要なのかと感じました。

ポールと別れたベースのアンディ・フレーザーがFreeのバンドの音楽性を代表していたという話があります。
 
ギターのような感覚でベースを弾くアンディがリーダー格として、強烈な個性で、Freeをまとめつつその中でポールが輝いていた、ということなのかなと思います。
 
Bad Companyはそれなりに認められていたと思いますが、ポールは脱退し、その後Led Zeppelinのリードギター、ジミーページとFirmというグループを結成。これもすぐ解散してしまいます。
 
下のジャケットはジミー・ページがポールと別れた後、Zeppelinのロバート・プラントと「Unledded」という名前で出したアルバムです。Ledはリードするということですから、もう僕達はリードはしないよ、自分の音楽を楽しむんだよという意味をこめて「Unledded」なのかと思います。
No Quarter
 
Book Off で見つけたものですが、ジミー・ページがアコースティックでインドしているって感じでZeppelinの緊張感からは程遠い仕上げになっています。
 
話がそれました・・・会社勤めを始めて、しばらく音楽から気持ちが離れて、流行りのロックについていけず、古い音楽や、黒人女性のヴォーカルを漁っていました。
 
大分経ってから、久し振りにポールの名前の入っているアルバム「Muddy Water Blues」を見つけました。
Muddy Water Blues.jpg
 
このアルバムはポールがブルースのマディ・ウォーターに捧げたアルバムです。
 
ギタリストがすごくて、ジェフ・ベックがかなり協力をしている上、ニール・ショーン、スティーブ・ミラー、ブルースのバディ・ガイ、Bon Joviのリッチー・サンボラ、Pink Froydのデビッド・ギルモア、YESのトレヴァー・ラビン、Stray Catsのブライアン・セッツァーと多くのギタリストが曲ごとに支えて楽しくブルースをやっています。実は・・・最近一緒にやっているQueenのブライアン・メイも既に、ここに居ます。

アルバムタイトルはポールの作曲によるものでリフレインが耳に残るお気に入りの曲です。
 
アコースティックバージョンとエレクトリックバージョンで2回登場しますが、アコースティックがお勧めです。
<前に貼りつけていたMP3は削除しました。>
 
ポールがやりたかったことを周囲の人間の好意でアルバムが出来たということなのかもしれません。
 
うるさいこと言うとアルバムとしてのコンセプトというか、まとまりが、今一なのかもしれません。でも自分にとっては忘れることのできない一枚に加わりました。

昔、昔のこと、Yard Birdsというグループの歴代ギタリストがジェフ・べック、エリック・クラプトン、ジミー・ページでそれぞれイギリスを代表するギタリストになったというのはよく知られていることです。
 
クラプトンはCreamで燃え尽きて、その後、色々あって、Beatlesと遊んでたと思ったらアメリカに渡ってしまって、ブリティッシュを卒業した感じになりましたが、他の二人、べックとページがポールと深く係わっているというのはなんか、嬉しい感じがします。
 
一方、クラプトンが自分の原点に帰ったようにリラックスしてB.B.Kingとブルースしてる「Riding with the King」はポールの「Muddy・・」と同じような感じで、自分には心地よいアルバムです。
Riding With the King.jpg
 
アルバムから "Help The Power"です。MP3は削除しました。

3月のある日、Amazon.comで購入したエミルー・ハリスの2枚のCDとポール・ロジャーズの「Live in Glasgow」と「Queen + Paul Rodgers」が届きました。
 
Book Off、GEOの中古CDのみに頼るところから少しだけ脱却を図っています・・・

ボブ・ディランが世間に紹介したエミルーはちょっと不思議な感じの雰囲気の独特なカントリーの世界を構築していて浸ってしまいます。

ジャケットも好きな感じのものが多いです。まあ結構な歳になったと思うけど美しく歳をとっている感じがします。
emmylou harris roses in the snow.jpg
 
さて、ポールの方ですが・・・「Live in Glasgow」は録音はよくないけど、Freeの時の曲中心で満足でした。
Live in Glasgow.jpg
 
というところで「Queen+」をおそるおそる聴きましたが、やはり落ち込んでしまいました。CD紹介で「クイーンのファンにはポールの素直な声が物足りないかも」って書いてあったけど、まあ確かにポールが大人しく思えます。戸惑っているような感じがします。
Cosmos Rock Queen+Paul Rodgers.jpg
 
「ポールのヴォーカルにクイーン風コーラスなんかつけるなっていうんだ!!」と叫んでみてもむなしいこと。両者にとって不幸な結婚になっていることを感じました。陣内と紀香も別れたことですし、なんとかならないでしょうか?
 
・・・・と、実はこの記事全体が3月に出来事を書きとめておいたものなのですが、その後、車で何回か聞いているうちに、なんだかんだ言ってもポールだし、繰り返し聞くと大体の音楽は気になってくるというところがあって、Queen風ポールもいいのかなと思い始めているのが事実であります。
 
ちょっとポールへ入れ込み過ぎの記事になりました・・・
posted by くまじい at 00:01| 音楽話

2009年04月10日

僕の音楽2

先週の日曜日にBOOK OFFでLYNAYRD SKYNARDを3枚発見、中古にしては高め設定の値段だったけどゲット。レコードで持っているものもあるけどね。改めて不幸な飛行機事故に遭い、消えてしまったバンドに黙祷・・・
 
と、過去の記憶のみに頼っていると危ないので確認したら、やはり!でした。残ったメンバーで再結成されて今も活動しているそうです。ファンの方に怒られてしまう。・・・それにしても、もう30年前のことです。
 
固いこと言わないで気楽に聴ける、アメリカンバンドって言う感じでロニーヴァンザントの声も好きでした。もうちょっとひねった感じのLITTLE FEATなんてのもよかった。
LYNYRD SKYNYRD
 
前に黒人系女性歌手をCDジャケットの外見で購入していると書きましたが、非黒人系の女性の場合は容姿は問題にならず(良い女の方がいいけど・・)、特徴のある声、自分の情緒に合った歌い方の人が好きになるようで、ボニー・レィット、エミルー・ハリス、スーザン・テデスキと言ったところで結構限定されています。
Luck of the raw
Emylou Harris2 
Wait For Me

 
シェリル・クロウ、リサ・スタンスフィールド、Misiaなどが続きます。
声の綺麗な人、唄が上手すぎて朗々と声を張り上げて歌い上げる人などが苦手みたいです。
Sheril Crow 
Lisa Stansfield 
Misia

男の場合は、次から次に好きになるという感じですが、声の質に加えて、歌い手の優しさが伝わってくるような歌い方の人で、男っぽいよりちょっと危ない感じがある人が多いかもしれません。自分もそちらの方もいける口なのかと・・・

ポール・ロジャーズ、ジョージ・マイケル、スティング、グレン・フライ、スティーブ・ウィンウッド、小田和正・・
Paul Rodgers 
George Michael 
Sting 
Glenn Frey 
Steve Winwood

まあ「優しさ」というのは聴いて好きになった人たちを無理やりくくっているので、他の人が聴いて同じ感想を持つかどうかは自信がありません。
 
小田和正を最初に買ったのは「LOOKING BACKU」でした。だからそんな昔からのファンというわけではありません・・・CDのTVコマーシャルで流れた唄が昔と違った暖かい感じがして、ちょっと惹かれました。
 
「LOOKING・・」はTとUが色違いの絵になっており、好きなジャケットの一つなのですが顔写真が入っていません。
Oda Kazumasa

ポール・ロジャーズはFREEその後BAD COMPANYというグループのリードボーカルでしたが、他の人も、WHAM、POLICE、EAGLES、TRAFFIC、OFF COURSEと皆グループに属しているか属していた人達が多いようです。
 
最近は聴いていませんが、GENESISのフィル・コリンズ、BLOOD SWEAT & TEARSのアル・クーパーなんて人も・・・
 
ジョー・コッカーだけ毛色が変わっていて、ハード一筋な感じだけど、映画のタイトルも主役の俳優の名前も忘れてしまったのですが、ラストシーンに流れた「You Can Leave Your Hat On」が大好きでお気に入りに入っています。
The Best Of JoeCocker
 
ソロアルバム中心で好きな音楽を並べました。人に話すほど好きって、どこまで本当に好きなの?って考えてしまいます。
 
普通に「好き」と言うとその人のことをもっと知りたくなるし、他のアルバムは、とか行くところだと思います。
 
老眼のせいもあり、細かい字のクレジットを読むこともありませんし、知識は増えない状態で、人にえらそうの言える程度なのか?まあ今のところの自分の中のマイブームのご紹介ということで・・・
posted by くまじい at 06:39| 音楽話

2009年03月22日

僕の音楽

学生のころは音楽まみれで音に浸る感じで、情報も雑誌などを読んで仕入れていましたが、会社に入ってからは聞き流す感じで、雑誌はおろか、買ったCDの解説すら読まない、と随分と接し方が変わってきたような気がしています。
 
CDに関しては、今でもBOOK OFFとかGEOの中古CD売場をうろついて、昔聴いていたころの歌手の名前を頼りに、あるいは聴いたこともない歌手のCDを物色して、よさそうなものを購入するのは続けています。
 
太めの「あらかん」が中古CDあさっているのを見かけたら、自分かもしれません。
 
聴いたことのない歌手の場合、最近はほとんど女性歌手、しかも黒人の女性歌手が多いのですが、CDのジャケット写真の雰囲気、あるいは歌手の容姿に惹かれて買う、というようなレーシャルハラスメント的、セクシャルハラスメント的選択基準で選んでいます。
 
試聴無しで、見知らぬ歌手のCDを買うので、不安はあります。
 
200円から1000円程度なので外れてもいいか、みたいなところもありますが、自分の場合、音楽に関しては最初に聴いたときに、今一と思っても、繰り返し聴いているとよくなってくると言う時があるのでそれも面白いところです。
 
アリシア・キーズ「Songs in A Minor」はジャケットに惹かれた一枚です。BOOK OFFで安かったのとジャケットの色具合の良さに惹かれて購入、気に入って、次のアルバム「As I AM」もゲットしました。
アリシア・キーズ.jpg
<Songs in A Minor Amzon>
 

昨年、来日したアリシアがテレビ出演していて、あっあれだ!って思ってたら、その時の紹介でグラミー賞を獲った歌手だと知って、えらく得した気分になったことがあります。
 
「Songs・・・」がデビューアルバムでグラミー賞を獲得したもののようです。BOOK OFFさん、値段の設定を間違えたんじゃないのかと思う程です。
 
ビヨンセはDestiny’s Childの時にはそれほど興味がなかったのにソロアルバムでグラミーを獲ったとことを知って、購入しました。このあと、放っておいたDestinyの CDも聴くようになりました。
Dangerousely in Love
 

< ノラ・ジョーンズもグラミー賞受賞とラビ・シャンカールの娘と言うニュースで興味を持ちました。ラビ・シャンカールなんて偉く懐かしい名前でした。
Norah Jones
 
敦賀に来る前にアメリカに時々行っていた頃からジャケットに惹かれてCDを買うというのが始まっていました。
 
タミア「A Nu Day」はその頃、ジャケットに引かれて買った一枚です。最初はなんとなく聴いていましたが、何回か聴いているうちに引き込まれてしまいました。
Tmia Nuday.jpg
 
ナタリー・コールは当然名前も声も知っていましたが、「Snowfall on the Sahara」をそのころ買いました。
 
「A Song For You」はエルトンジョンの作品ですが全然違う仕上がりで出張先の田舎のモーテルの一室で夜中に聴いていると望郷の念というのか、たまらない気持ちになった記憶があります。
Snowfall on Sahara
 
ちなみにナタリーのCDではお父さんの唄をカバーした「Unforgettable」もお気に入りのアルバムです。
 
こうして書いてきて、なんかジャズっぽいところからR&Bに偏ってる感じになりました。自分の聴いているのはもっとロックよりなんだけど、話がたどりつきませんでした。
 
山の話も続きになったように、僕の音楽も続きます。 唄のファイルをリンクに載せたけれど、著作権の問題があるので本当はいけないことのような気がします。個人用ということで勘弁していただき、2〜3週間で消したいと思います。
 
【註:You Tube を貼りつけることを知り、音楽を直接アップすることは止めました。】 
posted by くまじい at 02:21| 音楽話