2011年09月25日

伊吹山ドライブウェイ

退院してマキノ、京都と連日出歩いて、ちょっとお疲れで、8月11日は写真の整理などして部屋でのんびりして、完全休養日にしました。
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<中央コースの下りのお花畑>

明けて12日は伊吹のお花畑を楽しんできました。と言っても伊吹山ドライブウェイを利用して頂上近くの駐車場まで行き、40分くらいだらだらと道を登るだけでお花畑にたどり着けるものです。
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<西コースを登ります>
 
伊吹山は5回は登っていますが、全てスキー場からの歩きによるアクセスでした。
 
そのうち、一度だけ、ロープウェイで3合目まで登り、楽をしたことがありました。その後行った時には、夏場の営業を止めていて、利用出来ないようになっていたようでした。
 
このところご無沙汰してますので、現在営業しているかどうかはわかりません。
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<シモツケソウ>

伊吹登山は、スキー場のある一合目までの林の中の取りつきが結構長い。
 
「まだかよ」とうんざりし始めるころ展望が開けて、スキー場に到着します。
 
スキー場にたどり着けば、今度は、陽を遮るもののないゲレンデの登りがきつくなります。
 
時間帯によっては、パラセーリングの練習を横目で見ながら登るので結構面白いのですが・・・
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<ノリウツギ>

ロープウェイを使うと、3合目まで一気に登ります。
 
ロープウェイから降りると目の前に伊吹のピークが聳えていて、広大な草原の中を緩やかにを登り始めると言う感じです。
 
目で楽しめる分、気分的にも随分楽な感じがしました。
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<キオン>

頂上付近の花畑にたどり着くと、ドライブウェイから来た軽装の楽な靴を履いた人達が わんさといます。
 
さらに頂上まで行くと、「生ビール」の幟の立つお茶屋さんが軒を並べていて、まあ面白い山だないました。
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<シシウド> 
 
汗だらけのままでお花畑で写真を撮ってると、「下から登ってきたんですか?すごいですね。」とか言われてちょっと良い気になったりして・・・
 
苦労して登ってきて人混みだけだったら、がっかりですが、人々を惹き付けている、お花畑の存在が全てを忘れさせてくれます。
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<ヤマホタルブクロ>
 
今回は初めてドライブウェイから登ることに。
 
ネットで調べてお花畑のパンフレットをコピーして持って行きます。(記事の最後に載せさせていただきました。)
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<クサフジ>

相変わらず花の名前はまったく判りません。伊吹山は前にも書きましたが、時節毎の花のガイドがあり、比較的楽なのですが、それでも全く自信がありません。
 
風景や建物は写真を撮っておいて、後で縁起などを調べることができます。

花の場合は、似たような花があると花の写真だけではとても判断ができないので、花、葉、茎など各部の記録をしておく必要があります。
 
前に「山野草を育てる」の管理人の方に、花の名前を教えていただいた時に、「葉の写真がないとわからない」と指摘され、反省したはずなのですが・・・
 
記録的な写真を撮ることはこの雑な性格の「くま」に望むべくもなく・・・いざ写真を撮るときには、写真を面白くすることを考えてしまって、「記録」が飛んでしまいます。
<メタカラコウ>
 
下に示した白い小さい花達はまったくわかりませんでした・・・ 

色々な図鑑によって、写真の雰囲気が異なり、こっちかあっちか、迷い続けて、結局は全てクエスチョンマーク付になります。
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<ヤマぜり?>
 
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<オオハナウド?> 

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<ヨツバヒヨドリ?>

当日、ドライブウェイが何処にあるかよくわからないまま、敦賀を出発。
 
伊吹登山の時はいつも、高速は使わないので、今日も、下道を走ります。
 
なかなかたどり着かない・・・関ヶ原の近くまで走って、ようやく入り口が見えてきました。
 
高速で関ヶ原まで来てしまった方がよかったかたと思いつつ・・・伊吹山のふもとを半周してようやく入り口にたどり着いたことになります。
 
考えて見れば、スキー場は北側斜面にあり、ドライブウェイは登山道とは反対側にあるのが判っていましたから、当然南斜面ということは自明のことでした。 
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ドライブウェイ入り口で3000円を払い、登り始めます。
 
植物園=お花畑に向うスカイラインの通行料、植物園の入園料、駐車場料金込みの料金の合計と考えると二人で3000円は安いものかなと。

駐車場から西コースを登りましたが、石を敷き詰めた遊歩道の緩やかな登りです。

天気が大分良くて、琵琶湖も見えてきますがぼんやりと霞んでいました。
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西コースの登り口はそれ程花は多くないのですが、花を見つけるとつい脚が止まってしまいます。

上に行けばもっとお花が待ってるのに、と思いつつ・・・

一つの花で複数枚ある写真は、行きの西コース、頂上のお花畑および帰りの中央コースで撮った写真が混在しています。
 
下記はルリトラノオです。
パンフレットを見ると良く似たクガイソウもあったのですが、葉が放射状に一か所から4〜6枚出るというのが特徴で、どうも、この中にはないみたいです。
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<ルリトラノオ>
 
頂上のお花畑まで登ると、花の名前を皆に教えながら、花のガイドを売っている人がいました。
 
ガイドは一部100円で4部セットですから、あまり利益にはならないで、ボランティアで案内をしてくれている感じです。
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前記したように花の名前はガイドを読んでも、なかなか判り難い。ベテランが教えてくれるのは有り難いことです。多くの人が群がって、質問攻めしてました。
 
お花畑を堪能して、何時も休む一番奥のお茶屋さんに入ります。窓際の席が風通しが良くて、いつも何気にこのお茶屋さんを選んでしまいます。 
 
お蕎麦を註文して、店内に貼ってある、花の写真のパネルを見て廻ります。ガイドの写真は小さいので大きな写真でみると印象が異なる場合があります。
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以前、この茶屋で山椒の実を売っていたので、どのようにするのか訊いたところ、甘辛く炊いて食すのだと。家で炊いたのを食べて見ろと言われて、試食させてもらいました。

口の中が山椒で辛くなってしまって、山の下りで喉が渇いてしょうがなかった覚えがあります。
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蕎麦を食べてしばし休憩、リハビリ中でなければ、生ビールを頼んで帰りの運転は奥さんに任せると言う手もあったかもしれません。 

術後で暫く酒を飲む気にはならないし、昼から飲んでもつらくなるだけで、頼まなかったと思いますが。
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<駐車場は7割方満杯というところでしょうか?>
 
もともと、登山した時に余り酒を飲む気にはならなくて、以前、雪の野坂に登るときに、ワンカップを持っていって、身体を温めることはしてましたが・・・
 
体力に自信がないので、なるべく素面で居ようということで、それも止めました。
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<キリンソウ>

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<ウツボグサ>

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<ミヤマコアザミ>
 
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<クルマバナ>
 
下りは東コースを下ろうと話していましたが、自分が降り口を勘違いしたようで、下り始めた道は中央コースでした。
 
大分降りてから気が付きましたがもう遅くてそのまま下ります。
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<イブキフウロ>
 
ガイドを見ると、西コースから頂上に向うコースが一番花が多い様ですが、東コース沿いにも花畑があるようで、中央コースが一番寂しかったようです。
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<ハクサンフウロ>
 
車で来ても、花を楽しむことはできることが判ったので、これからも時々来てみよう、その時に来ればいいかと・・・
 
歩いて登った時も、東コース側に少し降りて、お花畑を覗いても良いかなと思います。
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<ツリガネニンジン>

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<カワラナデシコ>
 
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<キンバイソウ>

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<オオバギボウシ>

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<イワアカバナ>

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<オニユリ>
 
中央コースでも、途中のお花畑はそれなりに見どころがあり、面白かったです。
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<中央コースのお花畑>

たっぷり山の花を楽しんで、帰る道すがら、せっかくここまできたのだから、大谷吉継のお墓にお参りして帰りたい・・・と寄り道して帰ることにしました。
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伊吹山ドライブウェイ
posted by くまじい at 15:30| Comment(0) | 花風景

2011年09月22日

三千院

大分時間が圧してきましたが、ともかく三千院に向います。
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<夕方の水撒きが始まっていました・・・>

なるべく楽しようと、奥の奥まで進み、魚山園の手前ぎりぎりまで進むと左手に下りたところに比較的広い駐車場がありました。

魚山園は料理屋さんと思いましたが、お料理と天然温泉が売り物の高級旅館らしい。1人で泊まると2食付で3万2500円・・・それでも11月の紅葉シーズンの週末はもう空き室は少ないようです。
 
・・・外国のホテルに泊まること考えたら、食事付きで安いのかなと思いますが・・・
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拝観は5時までとのことで、まあ50分くらいはありそうです。
 
今頃入るのは我々だけど思ったら、他にも数組はおられて、ちょっと安心。
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三千院の縁起を書こうと思いましたが、三千院の歴史は複雑で、俄か勉強では容易に理解できませんでした。
 
結局良く判らないままですが、三千院ホームページの説明にWikipedia などの説明を補填すると下記の通りになるようです。
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「三千院は天台宗のお寺で山号は魚山、最澄が788年に延暦寺東塔南谷に薬師如来を本尊とする草庵「円融坊」を開いたことを起源とする。
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円融坊はその後、麓の坂本に移される。
 
延暦寺内の各寺院は麓に僧の住いとしての「里坊」を持っていたのだそうですが、円融坊が坂本に移ったことを起源とするということなのでしょうか。
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円融坊はその後、名前の変遷があり、梶井宮と呼ばれ様になる。
 
1118年に堀川天皇の第2皇子、最雲法親王が入室します。
 
以降、皇族出身者が住持する宮門跡となり、妙法院、青蓮院、曼殊院、毘沙門堂とともに天台宗五箇室門跡のひとつとして歴代の天台座主を輩出する。
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1156年に最雲法親王が天台座主となります。
 
その年に、大原魚山の来迎院、勝林院、往生極楽院などの寺々を管理するために、梶井門跡の政所を大原に設ける。政所は要するに管理事務方の出張所というところなのでしょう。 
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梶井門跡はその後、場所を転々とし、大原を本坊としたこともあるが、徳川綱吉により市内の梶井町に迎えられる。
 
明治の代になり、1871年、当時の門跡が還俗したことにしたがい、大原に本坊を移し、梶井宮にあった「一念三千院」から三千院と称することとなった。 
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<ホームページから、境内の図をお借りしました。>
 
大原を本坊とするにあたり、往生極楽院をその境内に取り込むことになった。」
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<阿弥陀三尊(国宝)がおられる往生極楽院>
 
宸殿にご本尊の秘仏薬師如来と不動明王がおられて、この極楽院に阿弥陀三尊がおられるというのは元々別のお寺であったものが統合されたということで理解できました。
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<往生極楽院>
 
近頃、当初の自分に対する戒めであった、「俄か勉強で記事を書かない」は放棄です。薄っぺらな俄か知識でえらそうに文章を書かない、と言う自戒でしたが。
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せっかく記事を書くのなら、自分の備忘録として、後で振り返れるようにしたい、と変心してきて、浅薄ながら少し調べて書くようになっています。
 
関連の書籍を読んで肉付けすべきと思いますが、まあ自分の満足だけだからと、ネットと雑誌や新聞記事でごまかしているところです。
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寄り道が長くなりました。拝観の時間がないと言いながら、無料の写経をさせていただきます。
 
奥さんがじっくり写経に取り組み、御朱印をもらっている間に、さっさと写経を終えたくまは先に歩き出して、宸殿へ。宸殿は撮影禁止です。
 
さらに、ご本尊の薬師如来は秘仏ということでお姿も拝むこともできません。もう夕方の掃除を始めていたお坊さんに「御本尊が御開帳されることはないのですか?」とお伺いしました。
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正確に回答を記憶していないのですが、「門跡というのは皇室のお寺なので一般に御開帳するということは本来あり得ない。一般のお寺でよく言われる77年に一度とかの開帳の周期というのはないんです。
 
この間、皇室の方(皇太子様だったか?)が来られるのを記念して一時的に御開帳された。その時は門前に大行列ができて大変なことになりました。」ということでした。
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極楽院で阿弥陀三尊にお参りし、のんびりと境内を歩いているうちに、とうとう他の参拝客はいなくなりました。
 
表にでると門前の道も、もう誰も歩いていません。緑の映える三千院も良いけど、やはり紅葉の季節にまた来てみたいところです。
 
暗くなりかけた367号を北上し、途中の鯖寿司のお店で一本求めて帰ります。正直言うと以前に熊川宿で食べた鯖寿司の方が鯖の厚みといい、味といい数段上の様な気がしました。
 
どちらかと言うともう夕方の遅い時期でしたから、寿司の新鮮さと言う面では厳しかったのかも知れません。
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posted by くまじい at 00:58| Comment(0) | 史跡巡

2011年09月19日

寂光院

大分前の話になります。
 
紅葉を求めて永観堂、真如堂、詩仙堂など、京都の紅葉の名所をお参りして、帰りに三千院に寄りました。
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<三千院紅葉 2002年11月・・2002年!!・・・>
 
その時に寂光院が近いなと思いつつ、寄らずに帰ったと言う記憶があります。 
帰りがけで、時間がなかったせいだったんだろなと・・・ 
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<焼失前の寂光院本堂 絵ハガキ>
 
今回、寂光院(寂光院ホームページ)の宝物殿で2000年の放火事件の説明を読んで、ああ、そう言えば、火事の直後で、拝観できなかったということがあったなと、思い出しました。
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<現在の本堂は2005年に再建されたものですが、良いなと思います。>

寂光院は594年(推古2年)、聖徳太子が父の菩提を弔うために開設したとされ、天台宗(過去一時期は天台、浄土兼宗であったらしい)の尼寺、清香山玉泉寺の子院にあたる。
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ただし、詳細は不明で空海開基など、異説も色々あり、また開基後の歴史も明らかでないのだそうです。
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聖徳太子も空海も、天台にかかわりないような気がしますが、今までの経験でお寺は歴史の中で宗派を変遷する例はありましたから、不思議ではないのだと思います。
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寂光院のホームページによると、初代住持は聖徳太子の乳母であった玉照姫で、その後は皇族のお姫様達が継いで来たようだということだけ、で明確な記録がないのだそうです。
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したがって、寂光院では、開基から大分時代が経ちますが、2代目の阿波内侍が1165年に入寺したことを持って歴史の再スタートとすることにしたようです。 
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阿波内侍は後白河に排斥された崇徳上皇(保元の乱)の寵愛を受けたと言われる人で、宮中では第3代建礼門院徳子に仕えていたのだそうです。
 
徳子とは縁の深い人で徳子の最後を看取った人と言われています。薪を頭に担いだ「大原女」のモデルという話もあるようです。
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建礼門院徳子は平清盛と時子の間の子で、高倉天皇の中宮(皇后)となり、安徳天皇を産む。下はWikipediaに出ていた系譜に関連の年譜を入れてみたものです。(太字byくまじい)
 
 忠盛       時信
  ┃      ┣━━┳━━┓ 
 清盛===時子 時忠  滋子==後白河上皇(1166〜71,1181年〜院政)
 (1181年2月没)         ┃    
   ┃  ┣━━┓             ┃
 重盛 宗盛 徳子====高倉天皇(1181年1月没)
                      (1172年婚姻)
                   ┃             
                           安徳天皇(1185年壇ノ浦で没)  
  
父平清盛率いる平氏一門と、徳子の姻戚上の義父、また叔父に当たる後白河との連携が崩壊し、権力争いが繰り広げられます。

清盛の死後、戦況が大きく後白河に傾き、平氏一門は京から西国に落ちます。
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その平氏一門に追い討ちをかけるように、後白河の平氏討伐の宣旨が下され、平氏は賊軍に貶められて、壇ノ浦で滅亡に至ります。
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壇ノ浦において、安徳天皇は祖母時子と共に入水、徳子も入水しますが、救い上げられ、捕らわれの身となります。
 
一説には時子が徳子に「生き延びて、平家を弔え」と徳子に命じたと言う話もあるのだそうですが、まあ、前者の方が判りやすい気がします。
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同じく生きて捕らえられた兄の宗盛は断首、時忠は流刑となるが、徳子は罪を問われることなく、京都吉田の地に隠棲し、出家する。
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その後、京の町を地震が襲い、徳子の宿坊も破損し、大原の寂光院に移ります。
 
寂光院の歴史に沿えば、2代目阿波内侍が徳子を呼び寄せ、代を譲ったと言うことなのではと思います。
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<建礼門院の庵の跡>

清盛は高倉天皇が崩御した時に、徳子を後白河の後宮(上皇の后?)に画策をしたが、両者に拒絶されたという話もあるようです。
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<裏山にある神明神社 寂光院とは無関係の様です。 次回、お参りしようと思います>

清盛は平氏一門の繁栄をひたすら考えていて、そのためには、何でもありだった、ということでしょうか。
 
最近、吉継の「潔さ」から逆に、武士社会の、特に戦国時代の割り切ったような人間関係が面白いなと思っています。
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でも、清盛と後白河の関係を見ていると、それは武家社会の特性、と言うよりは、公家、皇室の社会でも、似たような状況があるような気がします。
 
つまり、元々の日本人の本質に、権利を得るためには何でもありという、ドライなプラグマティズムがあるのか、と言う想いです。
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 <『平家物語』の有名(らしい)な後白河の大原御幸の説明がありました。>

戦後、受験勉強しか競争の場がなくなった、あるいは受験の厳しさ故に、戦闘の場を受験戦争に矮小化されて、世界観を失った日本人がウェットなお涙頂戴の女々しく、現代の姿に変身した・・・と、大分暴論です・・
 
三十三間堂の時に後白河のことを少し勉強しましたが、関連した場所が繋がって知識が広がっていくのも面白いです。
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<大原西稜:建礼門院稜 ここもパスしました。次回です。>

門前の漬物と佃煮の翠月さんに寄って「シバ漬」を買って帰ります。
 
シバ漬の本家は寂光院なのだそうです。
 
淡い色で酸味の少ない柔らかいシバ漬で、馴染みのある濃い紫ののパリパリと歯ごたえのある漬物と全く異なるものでした。
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翠月さんのホームページを調べてたら、下記の地図がありました。 suigetu.gif
 
翠月さんからさらに行くと阿波内侍のお墓があり、さらに先に行くと鞍馬に抜けることが出来るようでした。
 
買い物を終えると4時を過ぎてしまいました。三千院は5時までは入れるのじゃないのかと・・・慌てて三千院に向いました。
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posted by くまじい at 16:23| Comment(0) | 史跡巡

2011年09月17日

フェルメールからのラブレター展

8月10日はちょっと遠目ですが京都市美術館で開催されている「フェルメールからのラブレター展」 へでかけることに。
 
暑さを凌ぐのには冷房の効いた美術館が手ごろかな・・・というところです。
 
といって、もし、「ルーブル」の時みたいに押し合いへし合い状態だったらどうしよう・・と危惧しつつ・・・まあ平日でもあり、それほどでなくホッとしました・・・
 
 
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のんびり行こうと、昨日も通った161号でマキノに抜け、湖西道路で京都に入ります。
 
久しぶりのロングドライブであくびの連発で、眼は半開き状態に、「代わろうか?」と何回も尋ねられつつ、へろへろで目的地に到達。
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展覧会の目玉はアムステルダム国立美術館(ライクスミュージアム)収蔵の門外不出の「手紙を見る青衣の女」。
 
余談ですが、アムステルダム国立美術館はオランダ政府観光局lの日本語公式サイトに行くと「国立博物館」の記述となっていました。
 
ルーブルみたいに美術館と博物館的機能を併せ持っている感じなのでしょうか?まあ、英語にすればどちらもMuseumだし・・・ 
 
その「青衣の女」をはじめとした「手紙」にまつわるフェルメール3作品を中心として、オランダ17世紀の人々の生活を伝えようという催しのようです。
 
「手紙を見る青衣の女」は、昨年から修復作業が続けられ、このたび、その蘇った「青」を世界に先駆けて日本、それも京都市美術館で公開されるとのこと。
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<フェルメール 手紙を読む青衣の女 1663-1664:Wikipedia>

京都の後、被災地の宮城県美術館を経て、最後に自分にはおなじみのBunkamuraザ・ミュージアムで来年3月14日まで公開されるのだそうです。 

「『手紙を読む青衣の女』の修復はアムステルダム国立美術館の悲願であった。酸化して黄ばんだ古いワニスを取り除くと・・・」(福井新聞)
 
「フェルメール・ブルーと呼ばれ、当時としても大変貴重だった、ラピスラズリを砕いた顔料ウルトラマリンの青の輝きが、フェルメールのこだわった当時の光と色彩の世界とともに、長い時を経て蘇り・・・私達の前に姿をあらわします。」
「フェルメールからのラブレター展」公式サイト
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<フェルメール 手紙を書く女 1665 Wikipedia>

ラピスラズリ(瑠璃)・・・ラズリは天、空、青を表し、ラピスは石の意で、青金石(ラズライトNa8-10Al6Si6O24S2)を主成分としている。
 
天然ウルトラマリンは正確にはラピスラズリを砕いたものではなく、粉砕した粉から青い顔料成分を抽出したものを指すのだそうです。
 
成分表示すると、ほぼ青金石と同様の硫黄を含んだケイ酸ナトリウムの錯体 (Na8-10Al6Si6O24S2-4等)である、複雑な組成を持つ天然鉱物顔料である。(Wikipedia)
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<ラピスラズリ製の像:Wikipedia>
   
自分の中では、ウルトラマリンというのは「海の色の深い青」と解釈していました。
 
実際には、「海をこえてきたもの」、すなわちラピスラズリの唯一の原産地であったアフガニスタンから地中海を越えてヨーロッパにたどり着いたという意味を表すのだそうです。
 
ウルトラマリンレッド、ウルトラマリンバイオレットなどもあり、正確には「ウルトラマリンブルー」と呼ぶべきであるということです。
 
「ウルトラマリン」に対しては、まさに深い青のイメージで、響きのいい言葉だなと思っていましたので今回調べて唖然・・・でした。

他のフェルメールの「手紙」2作品はワシントン・ナショナル・ギャラリーの「手紙を書く女」とアイルランド・ナショナル・ギャラリーの「手紙を書く女と召使い」でした。
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<フェルメール 手紙を書く婦人と召使 1670 Wikipedia>

自分は、やはり「青衣」に一番魅かれました。うつむいて手紙を読む女性の表情と青衣が良く映えているなと思います。

9月7日の福井新聞にワシントン・ナショナル・ギャラリーのアーサー・ウィーロックの解説が載っていました。
 
「力が入った親指に感情が表れていて、手紙の送り手との特別な関係を描き切っている。日常風景でありながら、見る者の体験を呼び起こさずにおかない」
 
そこまで読めるのかなと言う気もしますが、今回ネットで調べて見るとフェルメールの絵の意図を論じる文章が多い様でした。
 
また、フェルメールの全作品30数点のうち「手紙」をテーマにした作品は6点もあるのだそうです。 
 
フェルメールは「手紙」にどのような思いを持っていたのだろうか・・・「フェルメールからのラブレター展」公式サイトで下記のような説明がありました。
 
「17世紀、大航海時代の植民地制を牽引していたオランダは、当時のヨーロッパにおいてもっとも識字率が高かった地域のひとつで、手紙によるコミュニケーションの文化がいち早く開花した地でもありました。
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<ピーテル・デ・ホーホ 女に手紙を読む男 1670〜1674>

1630年頃になると、手紙を読み書きする人々の姿が絵画作品の主題となり、手紙はとりわけ恋愛をめぐる場面を描く際には不可欠なモチーフとなりました。
 
当時出版された様々な書物の中でも、「手紙の書き方」「ラブレターの書き方」という本が多く出版された程に、この「手紙」は重要な役割を果たしていました。 
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<デ・ホーホ 中庭にいる女と子供 1658〜1660>
 
当時、家族、恋人、仕事における知人の間の直接的あるいは、手紙や伝言などのような間接的なコミュニケーションに伴い、表された感情を絵画作品の中に描きだし表現するということが盛んに行われました。
  
画家たちは、人々が会話する際に見せる一瞬の表情や仕草にとどまらず、離れた恋人からの手紙を読んでいる時の素の反応に至るまで、実に幅広い感情を表現しようとしました。」
 
当時は絵と言うものが単に鑑賞するものでなく、作者の製作意図を捉え、仕掛けられた謎を解き、自分なりの物語を発展させて行くものだったということなのでしょうか・・・
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<デ・ホーホ 室内(配膳室)の女と子供 1658>
 
フェルメールと共にデルフトで活躍して、フェルメールに影響を与えたというデ・ホーホの絵が面白いなと思いました。やはりなにか物語性のありそうな絵ですが、素朴で抒情的というのでしょうか・・・

メツーのこの絵もいいなと思ったのですが、女性の眼は窓の外を見ていて本を読んでないな・・・と変なところに気が行ってしまいました。
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<ハプリエル・メツー 窓辺で本を読む女 1663〜1664>
 
ヤン・リーフェンスはレンブラントの兄弟弟子にあたるのだそうです。ネットで他の絵も見て見ましたが、老簿記係の雰囲気がよくて、見た中ではこの絵が一番いいなと思います。
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<ヤン・リーフェンス 机に向かう簿記係 1629>
 
いつもの絵ハガキと「手紙を読む青衣の女」のA4版の絵を購入して、ロビーに出ると、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」が京都市美術館にくること、Bunkamuraでやっていた「フェルメール 《地理学者》 と オランダ・フランドル絵画展」が豊田市美術館に来ていることを示すポスターがありました。
 
「ワシントン・・・」はもう一度見たいので、また京都まで出てこようかなと・・・
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展覧会の後に平安神宮をお参りしてと思いましたが、暑くて、暑くてたまらなくて、少しは涼しいだろうと、郊外の寂光院、三千院にお参りして、帰りました。
 
 リハビリ期間にしてはちょっと欲張りすぎた一日だtったかもしれません。
posted by くまじい at 01:30| Comment(0) | 絵画室

2011年09月11日

マキノピックランド0809

8月8日に退院。今週いっぱいは静養にあてて、来週15日から会社に行くことにします。
 
奥さんは自分が元気に会社に行き始めるのを見て帰るということで、16日朝に帰ることに。

自分のために仕事を大分犠牲にしていて、花火を見て帰る余裕はないみたいです。
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お盆期間中の移動は大変かなと新幹線を予約しますが、なんなく指定席をとることができました。民族大移動の方向が逆なのか、ピークから外れているのか・・・

静養中と言っても、身体は動かせと言われていますので、部屋でじっとしているよりはでかけようと。
 
今日はマキノに向います。
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メタセコイア並木を抜けてマキノピックランドへ・・・中に入ったことがなく、何があるのか判りません。
 
果樹園の果物狩りやグランドゴルフ、地元の人が造った野菜の販売所、レストラン、土産物のショップなどがあります。
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中に入ってみると結構広いエリアです。野球ができそうなグランドの手前がグランドゴルフ場。数人のおっちゃんがプレーしてました。
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絵の教室か同好会と言った感じの集団みたいです。
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結構年齢層に幅のある子供達が芝生で野球をしたり、スケッチしたりして遊んでいました。
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入院中は気にならなかったけど、世間は大分暑い・・・
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野菜販売所。販売員が一人居て、地元の人が三々五々、自分の農作物を運んできて陳列して行く委託販売形式のようです。
 
品物には作者のシールが貼ってあるのでこれで売上管理するのだろうか・・・
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一袋100円程度でえらくお安い。まあ、道の駅で野菜買うのと大体同じかもしれない。万願寺に類似の唐辛子類もおいてあります。
 
我が家もお買いものをします。 
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ピックランドからマキノ高原に向います。駐車場に車を置いて少し歩き始めますが、えらく暑くて、川辺の東屋の日陰で涼みます。
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夏休みのお盆も終盤でキャンプの人波は少なめでした。
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暑さに負けず、グランドゴルフのプレーヤーが頑張ってます。
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以前、赤坂、寒風山を登った時に教えてもらった八王子荘でお風呂に・・・
 
と言っても、湯船にまだ入れないので、露天風呂に脚を入れて日向ぼっこしてました。時々、縁に手を添えて、そーっとオチンチンまでお湯につかりながら・・・
 
ここのお風呂は規模は小さいけど、「さらさ」より露天風呂に関しては田園の中に居る雰囲気があって気持ちがいい。「さらさ」はプールの方がメインのような気がします。
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以前来た時に、時間が遅くて閉まっていた在原の業平そばに向います。
 
入り口の角を鋭角に曲がらないと入れないため、2回ほど切り返しして、ようやくたどり着きます。後ろにタクシーが辛抱強く待ってくれていました。
 
すんません・・・バックで入ればよかったか・・・
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先客が二組います。そのうちの一組はご主人の知り合いらしくて、シカ肉のステーキとか色々でてきていて美味しそうでした。
 
こちらは、お蕎麦と季節のてんぷらを頼みます。サービスの漬物を出していただきます。
 
出てきたお蕎麦はソバガキの短冊切りと言うのか、ぶつ切りの幅広い蕎麦というのか。ソバを手繰る・・・のではなく、蕎麦を2,3個ずつ箸で摘まむという感じ。
 
ズルズルと啜る醍醐味は味わえません。
 
我々の後もまだ客が来て、席を詰めます。結構、流行っている様子。
 
流行っているということは、皆、満足して帰って、口コミで広まっているということなのだと思います・・・ 
 
出汁とてんぷらはこれはもう美味しくいただきました。
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最近はマキノの駅前に支店が出来、地元のオバサンに昼間は任せていて、夜になると、ご主人が出向いて居酒屋をやるのだそうです。
 
マキノでは水が悪くて、いい出汁が出来ないので昼間は蕎麦はやっておらずに、うどんだけ。夜に御主人がこちらから出汁を持って行って、蕎麦も出してくれるのだそうです。
 
ラジオとカセットとレコードが対応、今は単なるラジオなのだそうです。カセットが使えるのだから比較的、新しい?
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新疋田の駅に貼ってある地図で笏谷石の仏像群が残る定廣院を確認したのですが、方向を勘違いしたのか位置が判らず、とりあえずお気に入りの一つ、舟川を見に行きます。
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奥さんが電話をしている間に舟川を渡って行くと日吉神社があります。前に追分を歩いた時にも日吉神社があったと思います。
 
日吉(日枝)神社は「日枝山」→「比叡山」に繋がり、比叡山の麓の坂本の日吉大社を總本社として全国3800社ある。(「日本の宗教」日本文芸社)
 
今、司馬遼太郎の「街道を行く」シリーズの「叡山の諸道」を読みかけていて「日枝大社」の話が導入部になっています。
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上に登ってみると結構奥深い神社でした。
 
繁った樹々の合間を抜けて射す陽の光が一部の社を照らし、影の部分と織なす光景・・・こういう雰囲気は居心地が良くて、ずっと佇んでいたい・・・
どうも、時々、ところどころの神社の雰囲気にえらくはまってしまうことがあります・・・良く判らない・・・
 
電話中の奥さん放って一人で登ってしまったので、心配してるかも知れないなと、また改めてお参りにくることにして、帰ることにします。
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帰りがけに確認できたのですが、8号線との合流の手前の右側に公民館の入り口があり、そこを曲がると定廣院へたどり着けるようでした。
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2011年09月10日

手術・・・

入院から手術後までの記憶が実は余り定かではありません。思い出せる限り書いておこうと思います。
 
※今回の写真は2003年8月16日の平泉寺です。・・・随分、前になります・・・以前「白山神社(平泉寺)苔生す寺」を書いた時に一部の写真は使っており、再掲になります。
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昼食を終え、寝巻きに着替えて「病人」になります。

間もなく師長さんが来て、必要な場所を案内しておくから付いてきてくださいと・・・緊張して付いて行くとナースステーションで男性看護師を呼んで、「〇〇くん、案内して」とパスオンされます。
 
トイレと給茶器とお風呂、シャワー室を教えてもらい、部屋に戻ります。
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4、5日の入院なのだから贅沢させてもらおうと個室をお願いしました。携帯もネットも自由とのこと。ネットは業者に来て、モデムを設置してもらう必要がありました。

なんと1日150円・・・NYのホテルは一日2500円だっけ・・・

手術後、テレビは見る気がしなかったので、一度もテレビカードは購入しませんでした。
 
本を読んだり、PCに溜めこんだ写真の整理したり、でも、ともかく眠くて、寝てしまうのが一番時間が長かったですが・・・それでも一日中、昼も夜もYou Tubeのお気に入りで音楽を流しっぱなしにしてました。
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持ち込んだのは自分のPCで会社のPCは部屋に置いてきてしまいました。
 
自分のPCでは、会社のメールは見ることができないので、安心して休めるというところです。気になることは入院前に済ませてきたし、なにかあれば携帯がくるだろうと・・・
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病院内の案内を受けた後、入れ替わりに色々な担当の方が書類を持ってきて、サインをさせられます。

手術前にヒゲを蓄えていたのですが・・・
 
手術時に喉にパイプを通すため、噛まない様に、口に筒を固定するのだそうです。胃カメラのときに咥えさせられる奴みたいなものだと思います。その筒を口に固定するのにヒゲが邪魔になるので剃れと・・・
 
せっかくこれを機会に伸ばそうと思っていたのですが、売店でヒゲ剃りを購入して「断髪式」を・・・
 
実は、口元がもじゃもじゃして鬱陶しかったのでよかったかも知れません。
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昼過ぎに奥さんと一緒に先生のお話を聞く約束でしたが、先生が多忙で夕方になります。

下の娘が夏休みをつぶして来てくれます。

結局3人で話を聞くことに。この際とばかりに色んなこと訊く奥さんに先生は慎重に、すべての可能性について説明します。
 
それらの会話の内容の大半については当人が事前に先生に聞いてきたことなので、充分承知して手術に備えているつもりでした。
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それでも繰り返し、万が一の話を聞いているといささか気が滅入ってきます。だんだん「くま」の口数が少なくなり、顔が暗くなりつつあったのかもしれません。
 
先生が自分を気にして目の端で見ているなと・・・気が付いて顔を挙げますが、それでも眉間にシワが掘り込まれていたんだと思います。
 
案の定、夜、看護師さんが、「先生が今夜これを飲んで寝てくださいって・・・」と安定剤を渡してくれます。

先生の配慮に感謝して、有り難く、服用させてもらいました。
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夜食は牛乳とカップに入ったトロッとした蕎麦湯みたいな重湯(おもゆ)。
 
重湯というのは前にも経験したことがあるのかどうか・・・腸の内視鏡だったか、透視だったか、前夜の食事用にとレトルト品を渡されたのが、そうだったのかな・・・障子糊そのものの臭いで、吐き気を催し、絶食で検査に臨んだことがあります。
 
今考えるとあれがきっと重湯だったのかな・・・
 
この日は臭いも気にならず、「これが重湯か・・・」と少し口に入れては噛んで、5口ぐらいで終了。
 
普段なら腹が減って眠れないかもしれない気がしますが、それ程空腹感はなく、安定剤の効果も有ってか朝を迎えます。
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8月4日手術日です。朝6時頃までは水を飲んでいいとのことでしたが、あまり水を飲む気にもなれず・・・
 
先生が顔をだして、「それじゃあ、くまさん、今日、頑張るからね」と励ましてくれます。
 
奥さんと娘も到着して、いよいよ準備開始。
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麻酔を効きやすくする薬なるものを注射され、ベッドのまま、手術室に向います。
 
看護婦さんと奥さんの話を聞いていると、家族の待機室があって、そこで奥さんと娘は待っているらしい。
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入院時の注意事項に貴重品を放置しないというのがあったな・・・とぼんやり考えます・・・
 
「そう言えば、財布を引き出しに入れっぱなしだった・・・奥さんに預けておけばよかったな・・・」

まだ麻酔をされていないのに、なんとなくベッドに金縛り状態。皆もそこそこ、緊張しているなかで、今頃そんなこと言いだす雰囲気じゃなさそう。
 
もういいか・・

今考えるとつまらないことを考えながら、手術室に向ってました。
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二人と別れて手術室に入って行きます。

会社の手術経験のある人間が「テレビみたいですよ」って・・・
 
意味判んなかったけど、手術室の中を移動しながら、天井のライトを見てて、「ああ、そう言えば『ベン・ケーシー』だな・・」と。
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「はい、ちょっと身体をこっちに持ってきて。」

横に少し身体を動かすと背中がコンベア状のものに載って、手術台に向かって身体が動き出します。
 
手術台に移されると、周りで色々準備する気配が始まります。麻酔の先生が、麻酔の吸引装置を鼻と口に被せ、「大きく深呼吸して。すぐ眠くなりますよ。」

「すー」っと1回目、さらに2回目ろ大きく吸います。

「眠くならんな・・・」と、3回目を吸いかけたところで意識がなくなりました。
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以来、退院するまで、ず〜っと、霞みのかかった世界になってて、起こったことの虚実、物事の前後関係はオボロで判らないままです。
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気が付くと、元の部屋に寝ていて、口に酸素がきて、点滴がぶら下がって、妙にオシッコがしたくてたまらない。

「どうですか?」と訊かれるので、「オシッコがしたい」というと、今管が入っていて、オシッコは自然に流れていると。

膀胱の中に管が入っていてそれが刺激するのでオシッコがしたい感じになるのだそうです。
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眠くて、眠くてそのまま、次の日を迎えます。と言うより、当日の記憶がよみがえらないと言う方が正確ですが。

翌朝、外科部長の総回診。10人くらいの集団が来て、先生が部長に自分のことを説明してます。

外科部長さん「くまさん、腹腔鏡手術で出来る今の時代でよかったね。その大きな身体で開腹手術したらとんでもない傷跡になってたよ。」「はあ、ありがとうございます・・・」
 
なるほど、そういうもんか・・・
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名古屋で研修中の長女が休みが取れたと、3人で来てくれます。それでも眠くて眠くて、ひたすら寝てしまいます。

長女は看護師のくせに、あるいは看護師だからか「お父さん、元気がない!」と叱ります。そう言われると情けないけど、元気がでない・・・
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「オシッコの管を抜きますね。」と優しく看護師さんが言って、思い切り管を引っ張ると、オチンチンの中をパイプが走り、激痛が来ます。しばらく痛みが取れませんでした。

オシッコの管が取れたので、トイレは自分で行かねばならないし、なるべく歩いて内臓の動きを活発にしろと・・・
 
点滴を引きずりながら、娘達と病院の散策をします。まだ腹にドレン管が突き出ているのでなんとなく怖い。

術後、2日経過して点滴が取れますが、ドレン管が抜けません。ドレン管の上を覆っているガーゼがまだ赤く湿るのでなんとなく不安が募ります。

術後5日目で退院と言われていましたが、延期になるのかな・・・
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先生がきて、パイプを診て説明してくれます。
 
「ドレンパイプは内部の出血を排出するためのものなんだけど、くまさんの場合は内部からの出血はなくて、パイプを差しこんでいる開口部分の傷口から出ていて、パイプの外側に血が付いているようだ。
 
普通の人はこの状態でも傷口が癒えて行くんだけど、くまさんの場合は開口部の脂肪層が厚くて、ふさがり難いんだと思う。
 
だから逆にドレンパイプを抜いた方が治りが早いので抜くよ。」と・・・
 
パイプを抜く時には怖くて目をつぶってしまったのですが、見ていた奥さんによると、身体に入っていた部分が結構の長さがあってぞっとしたとのことでした。
 
結局ドレンパイプを抜いても、退院の日まで傷口が完全には塞がりませんでした。
 
外傷だけなので、問題ないということで予定通りの5日目で退院します。カサブタになるのにさらに1週間、カサブタが自然に取れたのは9月に入ってからでした。
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手術直後に、奥さんと娘は取り出した胆嚢と石を見せてもらったのだそうです。
 
「おとうさんに渡すって言ってたよ」と言うことですが、そう言えば「石が21個あったよ」と言う話は聞いたけど見てないな。まあ、あまり見たいとも思わないけど・・・
 
先生に訊くと、「え?・・・そう言えば渡そうと思って白衣のポケットに入れて・・・あれ、渡さなかったっけ?」ってまあ、どうでもいいところになると目一杯いい加減になる先生。
 
後で、切開した胆嚢と石が並んだ写真を持ってきてくれて、「どうしても見つからない、ごめん、これで勘弁して」って・・・先生が気にするほど欲しい物でもないので、もういいやと思ってましたが・・・
 
結局、退院後の検査の時に、「くまさんに良いもの上げる。」って嬉しそうに、見つかった石を渡してくれました。
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<楠正成供養塔 甥が平泉寺に居たとか・・・>

退院後の検査日を一週間後にしようと、予約して、退院します。
 
食事も生活も普通でいい。風呂も湯船に入ってもいい。ただし、公衆浴場ではしばらくシャワーだけにとどめろ。1か月は激しい運動は避けろ。ゴルフも、その練習も我慢。山も我慢。と言い渡されます。
 
8月末から市のテニススクールに通う予定だったけど、これは自主規制・・・
 
酒も飲んでいいと言われましたが、この際暫く酒から遠ざかろうと・・・
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退院後、敦賀に帰り、昼食を食べて寝てしまいました。眠くて、眠くて状態が続きます。
 
1回全身麻酔すると細胞が活性化するのに大分時間がかかるのか・・・などと考えつつ・・・精神的なものだと思います。
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2011年09月06日

入院前夜

入院前夜の8月2日、奥さんが敦賀に・・・必要な買い物をして、「最後の晩餐」に「つか田」へ向かいます。
 
黒龍の季節の吟醸で、お料理を楽しみました。
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3日の朝、10時までに入院受付まで来るように言われています。朝食を済ませて、8時半頃に駐車場に下ります。

サークルKで買い物でもして行こうと走り出すとガタガタと抵抗が大きい。

右後輪に3cm程のビスが刺さって、空気がすっかり抜けていました。昨日はちゃんと走っていたので、悪戯か・・・?
 
スペアに交換しようとしたら、なんとジャッキが入っていない・・・慌ててJAFを呼んで、病院に電話。10時には間に合わず1時間から1時間半は遅れることを告げます。
 
JAFが来てくれたのが9時半頃。スペアに交換して出発しようとしましたが、斉生会まで行くと言ったらJAFの人が納得しません。高速を使うのはもちろん、福井までの距離を走るのを止めて欲しい。
 
ガソリンスタンドあるいはタイヤ館かイエローハットが開くのをを待って交換してから行くのが望ましいと。
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店が開くのを待ってたら病院到着が何時になるかわからない・・・下道を行って途中で必ず、タイヤ交換するからと、約束して許してもらいます。
 
ゆっくり走りだすと、2駆で走ってるのに、スペアのタイヤバランスが悪いせいか、4駆の異常を示すセンサーが点滅を始めて焦ります。日産のe-4駆は、異常と検知してしまうかもしれないかもとJAFが言っていたことが現実に・・・
 
特に心配する必要はないはずだと思いながらも、ひやひやしつつ、武生の8号線にあるイエローハットに到着。今年履き替えたばかりの、ダンロップ「玄孫(やしゃご)」のエネセーブと同じタイヤの在庫があり、交換します。
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<お店の写真は別の日のものです>
 
結局11時半ごろに病院に到着。
 
朝入院して、昼から病院食の予定でしたが遅くなったので昼食を用意してないと、普通食の予定だったから、売店でなにか買うか、レストランで食事をすませろとのこと。
 
夜は手術直前なので、重湯だけらしい・・・
 
何食べても良いけど、堅いもの食べるなと難しいこと言われましたが、オムライスを食べて戻り、寝巻に着替え、いよいよ短いながら入院生活に入りました。
posted by くまじい at 22:00| Comment(0) | 茶話室

2011年09月05日

万願寺焼・池河内

前から行ってみようと思いつつ機会がなかった杉箸のお蕎麦屋さん、「又八庵」へ。
 
刀根を走っているとあちこちに看板がでています。その割にお店は地味な造りで、新蕎麦の幟が無いと、見落として、通り過ぎるところでした。 
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お蕎麦は、繊細で、しっとりしていながら、歯ごたえのある自分好み。
 
テレビのグルメレポーターが口に入れた途端に、「おいしい!!」と叫んでしまう、あの疑惑のリアクションに近い感じで、口に含んだ時の感じ、一噛みした時の感じ、これは良い、と心の中で叫んでしまいました。
 
メニューに「万願寺焼き」があります。なんだろう・・・長野の「お焼き」みたいなものだろうか・・・
 
京野菜の一つで、大きな「ししとう」のようなものだけど、辛みはなくて、むしろ甘いのだそうです。焼いて、削り節をかけて醤油をたらして食べると・・・即、お願いします。
 
美味しい。万願寺は京野菜だけど、最近、福井でも出回るようになってきて、福井でも造ってるんじゃないだろうか、ということでした。
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※「万願寺とうがらし」は単に「万願寺」とも呼ばれ、大正末期に伏見とうがらしと、外国系大型とうがらしであるカリフォルニア・ワンダーの交雑種として京都・舞鶴の地で生まれ、同市内の万願寺地区で作られていたものでこの名が付いた。(Wikipedia)・・・京野菜と言っても大正なんだ・・・ 
 
その後、買い物い行くと、店頭に万願寺があるかどうか気を付けて見ているけど・・・もっと細い物はよくあるけど、又八庵で出た大ぶりのものはあまり出回っていない様な気がします。たまにおいてあると、やはり産地は京都になっています。
 
万願寺焼きとお蕎麦を待つ間に、メニューでさらに卵焼きを見つけ、贅沢に追加注文を・・・これも美味しかった。
 
けれど、一人ではちょっと大きすぎました。
酒を飲めれば別だけど・・・ 
 
後から入って来た、岐阜のおっちゃん、おばちゃんの3人連れ、常連らしいけど、自分の食べているものを見て、おっ、美味しそうやな、と同じ組み合わせを注文、にわかに女将さん忙しくなります。
 
それでも自家製の漬物だしてくれて、美味しくいただきます。
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<お店の道路の反対側の水田です。今年の作況はどうなのでしょうか・・・>

ご主人のお話では高速道路が出来るまでは、ここは志賀から越前に抜ける近道で、交通量は結構あって、昔は忙しかったと・・・
 
高速が出来て、パタッと交通量が減り、今は土日しか営業しないようになってしまったのだそうです。
 
電話をくれれば、平日でも、夜でも営業するよ。とのことでした。
 
そう言えば自分のお客さんがここで、鴨鍋の忘年会をやったと言う話を聞いたことがありました。
 
池河内湿原経由で敦賀に帰ります。一旦、樫曲入り口まで来て、車を置き、湿原に入って行きます。
 
敦賀観光協会のサイトから池河内湿原のイラストマップをお借りしました。
 
いつも、木道を歩くか、車で道路を走るだけだったのですが、この地図を見ると西側に遊歩道というのが付いているようです。この記事を書くまで知りませんでした。
 
次回確認してみようと思います。
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敦賀観光協会
 
福井県のサイトによる「池河内湿原」の説明です。
 
「池河内湿原は、敦賀平野を流れる笙ノ川の源流部に位置し、周囲を低山によって囲まれた凹地に形成されいます。
 
湧水、及び周囲から流れ込む水によって潤され、南東側は通称「阿原ケ池」といわれる池となっています。
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<一組のご夫婦が散策されていました>
 
湿原の大部分は主にハンノキの湿生林となっていますが、中央部は、極端にハンノキが倭性化し草原状となり、ミズゴケが繁茂し、その一部が高層湿原状となっています。
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ここには、多様な湿生植物の群落が形成され、今や希少種となっている植物が多く生育しています。 
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主なものをあげると・・・
 
カキツバタ、コバギボウシ、ミツガシワ、ミズドクサ、ヤナギトラノオ、コウホネ、ドクゼリ、ヒメザゼンソウ、カキラン、サワラン、トキソウ、ヤチスギラン、ミカズキグサ、モウセンゴケ、オオニガナ、サンショウモ、サワオグルマ、マアザミなど。
 
(・・・ほとんどが思い浮かびません。そのうちどんな花か確認しようと思います。)

中でもミズドクサとヤナギトラノオは、福井県ではここだけに生育し、日本の南限とされています。
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<ミズドクサ四季の山野草>    <ヤナギトラノオ四季の山野草> 

植物以外にも、豊富な昆虫相が見られ、さらに、鳥類の繁殖、休憩地としてよい生息環境となっています。 
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池を中心とした湿原一帯は、県内では他に見られない動植物の生息地となるなど、貴重な自然環境となっていることから、集水域を含めた約111haの地域が1977年に県自然環境保全地域に指定されています。 」

 
花の名前はとりあえず名無しで・・・
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林に囲まれた湿原なので見晴らしはよくありません。時々林が開けても、周りを低山で囲まれています。
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<オオバギボウシ>

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阿原が池の近くになり、水堪りが見えるようになります。
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黒い羽根のトンボがいます。ハグロトンボ。水辺で生まれ、一時期、林に移動するも成熟するとまた水辺に戻ってくるのだそうです。
 
オスの身体は光沢のある緑色ということなのでこれはメスの様です。
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<ハグロトンボのオス Wikipedeia>
 
池河内集落側の入り口に来ると、笙の川の源流らしく、水がゆっくり流れ始めています。
 
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源流は道を渡ると小川になります。ここは春先に来ると、もう、本当に、思わず、「春の小川」を口ずさんでしまうこと必定です。
 
湿原の中とはちょっと雰囲気が変わりますが、落ち着く場所です。
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2011年09月04日

あらかんの誕生日

今日はくまじいの誕生日・・・63歳になります。プロフィールの記載を62歳から書き換えました。
 
いつまで「あらかん」と称していいんだろうか・・・まあ、来年まではOKかなと。
 
<B.B.King  Happy Birthday Blues>

このブログを始めた時の『あらかん』への反応・・・
 
「ああ『嵐勘十郎』ね」・・・えっ?・・・今頃、そんな俳優知ってる方が少ないっていうの・・・
 
「さすが、くまじい、『阿羅漢』」ですね」・・・おそれおおい・・・そんなお偉い名前付けるほど夜郎自大な人間じゃないつもりだけど・・・
 
世の中、色んな人がいる・・・
 
まあ、「あらさー」も、「あらふぉー」も最近では死語になった気がして、いまだに「あらかん」を称している方がおかしいかも・・・

これからも、色んな人との出会いを大切にしながら、大きく惑いつつ、歳相応の夢は失なわず、楽しく生きて行きたいと思います。70歳になったら、どんなオジンになってるんだろう・・・
 
『は〜っぴ ばーすでぃ ぶる〜す』 と、うかれつつ・・・
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2011年09月03日

玄蕃尾城

いよいよ8月3日に入院で、4日に出術という日曜日(7月31日)。
 
脚の状態を理由に山に行かない日が続いていましたが、今日だけはどこかに行こう・・・これが最後かも知れないし・・・と怖がりくまさん、悲痛な気持ちで奮い立たせます。
 
本当は伊吹に行きたかったけど、ちょっと体力的に自信がない、まあ野坂だなと思っていたのですが、随分行っていないので、野坂でも不安・・・
 
怪我でもしたらとか考え出して・・・山とは言えなさそうだけど、前から気になっていた「玄蕃尾城祉」を選びます。
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敦賀市観光情報
 
玄蕃尾城址は賤が岳の戦いにおける柴田勝家の本陣となったところで、敦賀市刀根と滋賀県の余呉町柳ヶ瀬にまたがる、内中尾山(柳ケ瀬山)にあります。
 
土塁、空堀等がいまだに完全な形を残していることで、城址ファンが多く訪れるみたい。ブログでもかなりの紹介があります。幾つかのブログ情報で、一応行き方を調べます。
 
お城好きな人達は几帳面な方が多いみたいで、分岐点等の写真を丁寧に説明してくれている情報もあって、下の写真の柳ケ瀬トンネルも分岐点として紹介されていました。
 
柳ケ瀬トンネルは、旧北陸線のトンネルを利用しており、単線のトンネルであったため、両サイドに信号が付いている交互通行トンネルです。
 
たどり着くと車が3台、既に並んでおり、延々と待たされます。
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1,2分程度の生易しい間隔ではなくて、10分単位という感じの待ち時間です。前の車の人達は飽きてきて、車を降りてトンネルを覗き込んでいます。
 
正直言うと、最初、これが柳ケ瀬トンネルとは気が付かずに、待っていたのですが、しょうがない俺もトンネルの写真でも撮るかとカメラを構えた途端に、あっそう言えば、こんな写真をネットで見たなと、気が付きます。
 
ここを左折って書いてあった・・・対向車線を行けば、左折できそうですが、いまさら、と諦めて待ちます。
 
ようやく対向車線に車が走ってきて、何台か通り過ぎ、信号が変わります。
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前の車で隠れていたのですが、トンネルの手前に小さな玄蕃尾城の案内が立っていました。

分岐までたどり着かないと見えません。交差点の上の方に標示してもいいのではないか・・・あるいは柳ケ瀬トンネルの名称だけでもあれば助かるのに・・・
 
今年の大河ドラマの大きなきっかけとなった地点としてもっと売り込めたのではないか・・・などと待たされた腹いせでブツブツとつぶやきつつ進みます。
 
左折してたどり着いた駐車場には車は一台もおらず、ここでいいのかちょっと不安ですが、玄蕃尾城こちらの案内がポツンと立っていて、登り始めます。 
 
道にはうっすらと雑草が生えており、訪れる人が少ないようでした。

1582年(天正10年)、「本能寺の変」で明智光秀により信長が討たれると、秀吉は「中国大返し」により、誰もが思いもせぬ速さで京に舞い戻り、「山崎の戦い」で明智光秀を打ち破る。
 
その勢いをかって、信長の後継者を決める「清州会議」を仕切り、さらに信長の葬儀を取仕切ることにより、その勢いを天下に知らしめて行きます。
 
柴田勝家は秀吉に対抗して勢力を整えていきますが、北の庄で雪に閉ざされて動けずにいる12月、秀吉は長浜城(柴田勝豊)、岐阜城(織田信孝)を攻略、年明けた1583年(天正11年)、伊勢の滝川一益を攻略するに至る。
 
2月末、堪らず、柴田勝家は雪を圧して北の庄を立ち、「柳ケ瀬玄蕃尾城」に陣を敷き、「賤が岳」等の木之本に布陣する秀吉軍と対峙する。
 
佐久間盛政等の活躍により一時、柴田勝家に戦況が傾きかけますが、抵抗を続ける織田信孝を討つべく、大垣にあった秀吉の素早い「美濃返し」により勝家方を動揺させ、勝家軍は総崩れとなります。
 
勝家は北の庄に落ちて、お市さんと共に命運尽き、お市さんの娘達、三姉妹は秀吉の元に迎えられます。(お市の方も秀吉の下にという書き方をしていました。訂正しました。)
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この戦場絵巻の中に、敦賀に来てお名前を知った金森長近と大谷吉継の物語が織り込まれてきます。
 
柴田勝家は冬を迎えて雪に閉ざされようとする前に、和議をしようと前田利家、金森長近等を使者として秀吉の元に遣わせます。
 
この時に、前田利家、金森長近達はむしろ、秀吉に巧みに調略されたと言われており、後の戦いの途中で戦線離脱、後に秀吉に仕えることになります。
 
秀吉と親交の深かった利家に長近が従ったということもあるのでしょうか。
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長浜の柴田勝豊の調略には大谷吉継の力があったと言われます。
 
また「美濃返し」の驚くべき短時間の移動を可能にしたのは、兵站を担う吉継の差配に因るものだったという話もあります。(小説「大谷吉継」・・・真偽は判りません)
 
「美濃返し」が吉継の功績であるとしたら、「中国大返し」にも吉継の知力が寄与していたと考えることはできないだろうか・・・
 
佐久間盛政が陣を敷いた「行市山砦」への分岐に到着します。
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志賀側への道はさらに雑草で覆われており、歩く人はより少ないようです。3.5Kmはちょっとつらそう、体調が復活したら一度歩いてみようと玄蕃尾城に向います。
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ちょっとした登りのあと平坦な尾根になります。時折、陽射しが射し、気持ちがいい。
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大谷吉継の人気に比較して、金森長近は現代では人気がないような気がします。
 
友誼に殉じたとされ、周りの裏切りの中で、最前線で斃れた吉継の壮絶さに比較して、長近は賤が岳で秀吉に、関ヶ原で家康に付き、加増されていく
 
・・・後世から見ると、結果として勝ち組を選んだ功利主義者という見方なのかも知れません。
 
歴史は好きですが、さほど勉強したわけでもなく口はばったい物言いで恐縮ですが・・・
 
時の流れを読み、天下を獲る信念を持った、将たる人間が、同時代の皇室、将軍などの象徴を利用し、根回しにより多数派を構成して行く。
 
世間が気が付くと、いつの間にか大勢が決し、もう歴史は戻らなくなっている・・・そんな歴史が繰り返している感じがします。
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根回しをする将、今、ここでは秀吉と家康は、戦に強いということではなく、人を動かすことの天才だったのだと思います。
 
それは禄を約束して人を動かす、ということとは別に、この人に天下を獲らせたい、この人なら国を統一してくれる・・・と思いこませる説得力と魅力が備わっている人達だったのではないかと思います。
 
事実は謀略と演技力の世界だったのかもしれませんが・・・
 
長近は勝ち組を選んだというよりは秀吉と家康というの人間に乗ったと言うことだったのではないのだろうか?と、いう気がするのです。
 
ただし、当時戦国武将達が勝ち組に付くことは、我々の判官びいきの正義感では計り知れない部分で極めて当然なことだったことも事実なのだと思います。
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禄を得るということが家臣団と共に生きて行くための最大の目的であれば、個人や家族のことだけ考えている我々より、もっとドライに割り切った選択をせざるを得ないといことがあると思います。
 
・・・とまあ、このまま想いを書き続けるときりが無い・・・
 
実は、手術後の休養期間中に伊吹山に車で登ってお花畑を満喫し、帰りに関ヶ原で、吉継のお墓にお参りしてきました。
 
続きはその時に・・・
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翻って玄蕃尾城祉(現場には玄蕃尾城跡(げんばおじょうあと)と表記されていました)は南北250m、東西150mの広い地域に明らかに人の手が入っている土塁、や空堀が確認できます。
 
今まで行ったことのある国吉城祉や金崎、手筒城址などに比較すると、スケール、人の手が感じられるという面ですごい所だなと思います。
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攻撃用の大手口、東虎口の標記があります。玄蕃尾城から南南西方向にある行市山砦に至る尾根筋が勝家側の陣となり、南東側に位置する木之本と対峙していたのだと思います。
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ここ東虎口から東の斜面に一気に軍勢が駆け下りて行くのが想像できそうです。
 
賤が岳に行った時に、説明板に「付近には昔、樹々はなく草原が広がっていた」という記述がありました。

 
ここもそうだったのだと思いますが現在は山頂の天主台跡に立っても、視界はよくありません。
  
誰もこない城址で一人興奮しまくって、城址を歩き廻りました。

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これだけ遺構が残っているのは、素早い退却で、この城が戦場になることはがなかった、また、その後の利用価値がなく打ち捨てられていたということなのでしょうか。
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一番端の北虎口に到着。うーんここは秋にもう一度きて、行市山まで歩こう・・・と決意して戻ります。
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登りでは気が付かなかったのですが、行市山の分岐の所に、柳ケ瀬まで1.3Kmの標識がありました。
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さあ、杉箸の「又八庵」で蕎麦でも食べて帰ろうと・・・今まで、機会がなく、今回が初めてになります。
posted by くまじい at 15:29| Comment(0) | 山紀行