仁和寺を後にして
妙心寺に向かいます。

<退蔵院 シダレ桜>
正法山(しょうぼうざん)妙心寺は臨済宗妙心寺派の大本山。開山(初代住職)は関山慧玄(かんざんえげん)、開基(創立者)は花園法皇。
妙心寺公式サイトの中に
「境内案内」があり、地図が記載されています。地図では、龍安寺も境内の塔頭の一つと読める記載がされています。

<妙心寺北門前の
京料理萬長さん 並んでるのであきらめました。>
塔頭の意味を確認すると、禅宗のお寺で祖師や高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、墓塔の頭(ほとり)に建てた小院を指す。
それから転じて、寺院の敷地内にある、高僧が隠退後に住した子院のことも塔頭と呼ぶようになった。 」(Wikipedia)

<北門前の民家の塀に鉢植えが並んでいました。>
塔頭と言う呼び方は、したがって、「敷地内の寺院」というこになり、かっての妙心寺の寺域が龍安寺までも含む広大なものだったということなのでしょうか。
龍安寺公式サイトの龍安寺の説明には「妙心寺第五世の義天玄承の開山による妙心寺派のお寺とありますが、妙心寺との関わりについては記載されてはいません。

昼飯をどこかでと思いながら、フランス料理屋さんのランチ3,500円というのがあったけど、重そうだなと敬遠。
めぼしいところがないまま、妙心寺北門まで来ると
京料理萬長さんの前にお客さんが並んでいます。良さげだけど、ちょっと並んでいる時間がもったいない。
とりあえず、妙心寺にお参りして考えようと・・・

<妙心寺公式サイトにでていた2007年「そうだ京都へ行こう」ポスター>
妙心寺は法堂、仏堂などの本来の妙心寺の周囲を数多くの塔頭が並んでいます。結局、桜を求める余り、結局、妙心寺御本体をパスして、塔頭巡りで終始する結果となってしまいました。
法堂の天井に描かれている狩野探幽の「龍」は桜や紅葉がからまない時期に、またお参りにくることにします。

<石田三成一族菩提寺の壽聖院>
正直いうと仁和寺で御朱印帳を忘れていることに気が付いて、すこし、お寺参りの気持ちが萎えていたこともあるかもしれません。
左右に塔頭が並ぶ参道を歩いていると右手の奥に塀の上から少し盛りが過ぎた感じの桜が顔を出しています。

<石田三成一族菩提寺の壽聖院>
石田三成一族菩提寺と記載のある壽聖院でした。
「読みにくい看板なのですが、慶長4年(1599年)三成が父正継のために伯蒲恵稜禅師を開基(開山?)として創建した。
石田三成の嫡男重家が関ヶ原の後伯蒲により、当寺で出家し、当院第3代となり、石田家の墓を供えた。」
とあります。
<石田三成一族菩提寺の壽聖院>
ホームページ
「兜‐KABUTO‐」に壽聖院の説明があり、自分が通って来た妙心寺の「北門」がもともと壽聖院の東門であったこと、隣の天祥院の門が「西門」であったこと、狩野永徳の庭を備えたお寺であること等が記載されています。
門をくぐってみたのですが、人を受け入れる様子はなく諦めてもとの道に戻ります。一般への公開はしていないということを上記オームページで知りました。
その他の塔頭も公開されていないところが多い様で、門のところで立ち入り禁止になっている所の方が多い様でした。妙心寺の塔頭については、公式サイトでは詳しい紹介がありません。
ケータイde妙心という携帯のサイトに全塔頭の簡単な紹介がされています。さっそく携帯にブックマークしました。
<智勝院 稲葉貞通が父一鉄の菩提をとむらうため、大光普照禅師を開祖として開基、1597年>

<春光(巌)院 松江藩主堀尾吉晴が長男の菩提を弔うために建立 1590年>
徳川家光が春日の局を弔うため開基した麟祥院が公開されていて、「龍」の襖絵があるとのことでしたが、パス。
大法院にたどり着きます。
松代藩主真田信之(真田幸村の兄)の菩提所として孫娘にあたる長姫(千種有能の室)が1625年に開基、開祖は淡道宗廉。
気が付きませんでしたが佐久間象山のお墓もあるのだそうです。
大法院は
京都観光/堤タクシー「京都ぶらり旅」の庭園案内に紹介されており、牡丹と紅葉の見所とされています。
こじんまりとしたお寺ですが、茶室の立たずまい、可愛い庭が心を落ち着かせてくれます。
拝観料には抹茶とお菓子の代金が含まれていて、庭を眺めながらお茶をいただきます。
結局これが今日の昼飯になります。
庭は路地庭といい、お茶の道で磨かれた庭ということのようです。しばし、桜プレッシャーから解放されて、ぼんやりと雰囲気に浸ります。
妙心寺拝観の受付を通り過ぎて、
退蔵院に向います。
開祖は妙心寺無因宗因(興文円慧禅師)。波多野重通の建立になり、応永11年(1404年)創建。長禄年間(1457〜60年)以前に妙心寺境内に移建された。
如拙(じょせつ)筆「瓢鮎(ひょうねん)図」(国宝) のコピーがありました。
「宮本武蔵が愚堂禅師を求めて参禅した頃、この瓢鮎図を前に自問自答したという寺伝があり、武蔵自作の刀のツバにはこの「ヒョウタンと鯰」がデザインされているものが現存するといいます。
「鮎」は日本では「アユ」であるが中国では「ナマズ」になる。「鯰」は日本で作られた「ナマズ」の国字。
中国では「アユ」を「香魚」と書きます。」(
退蔵院公式サイト)
余香苑の入り口の石庭のところに3,4本のシダレ桜が枝を広げており、自分の様なカメラ好きが群がっています。
実際の水琴窟はこの隣にあるイシコロを並べたところなのですが、撮った写真が面白くないので、水琴窟を鳴らすための水源の写真を・・・
退蔵院の公式サイトに水琴窟の原理図がありました。適度な大きさの素焼きの甕を使用しないと、良い音が出ないのだそうです。

一番奥までくると茶室があります。茶室の前にも大きなシダレ桜がありました。
桂春院に向います。桂春院は開祖は妙心寺七十三世の水庵宗掬(心華霊明禅師)。津田秀則により慶長3年(1598)、創建。
津田秀則は織田信忠の次男、織田秀則を指す。(別人であるとの指摘もあるのだとか)
寛永8年(1631)に貞政が本堂を再建したとき、桂春院と改号し、またこのおり、長浜城から茶室、書院等を移建し、現存の方丈(ほうじょう)は当時のものである。
苔の上に散った桜の花びらが模様を造りつつありました。
桂春院からでて、北門の通り(一条通り)にでて、そば屋でもと探しますが見当たりません。まあ、時間的にも3時になっているので、もう昼飯は諦めるしかなさそうです。
当初、行った事のない所優先で、龍安寺はパスして等持院に向おうと思っていましたが、せっかく近くにきているのだから寄って行こうと。
ちょっと遠回りになってしまったかもしれませんが、龍安寺を目指します。
今回の中で一番写真の枚数を費やしたのが、結局は龍安寺で、シダレ桜の林は見物でした。
